江戸時代より少ない将来の人口〔4844〕2016/07/20
2016年7月20日(水)晴れ!
いつの間にか梅雨も明け、夏空が広がる高知平野。クマゼミがワシャワシャワシャワシャ。昨日の夕刻、徳島の有意義な研修から帰ってきました。それにしても、すごかった。良い研修でした。いやまったく。
ここは今朝の南国市田村。高知空港の北西部。右手遥かに、高知空港の管制塔。そう。ここは、田村遺跡の中心部で、公園になっちょります。地理院地図では、このように、旧河道の位置を確認できる。これを見れば、この写真の界隈、つまり滑走路の先っぽの北側界隈は、河道と河道の間の微高地であること、わかりますよね。ここに、弥生時代、南四国最大級とされる集落が形成されたのでありました。
水の便が良く、洪水にも強い。南に行くと、太平洋から入り込んだ天然の入江。暮らしやすかったのでありましょう。
弥生時代初期から晩期まで、数百年の間、ここに人々の営みが、あった。
集落の人口には増減があったでしょう。50人〜100人くらいでしょうかね。そんな感じの集落が、長い長い年月、ここにあった。
人口と言えば、現在の高知県の人口だ。
県庁のホームページに、平成28年7月1日現在の高知県の推計人口が載っちょります。前月比395人の、722,355人。72万人か。前年同月比9,791人だと。1万人も減っちゅうのか。
史上、経験したことのない人口減少を、今、我々は体験しているんだ。
今の減少傾向から推計すると、平成52年には53万人台に、なっちょります。ほんの20数年後。これはもう、すごいこと。
高知県の人口集計は、江戸時代になり、かなり正確に行われるようになりました。
天和二年(1682年)の高知県の人口が、33万3千人。この時代のことですき、数え漏れも考えられるので、実際にはもっと居たのかも、知れない。しかし、江戸時代の前期に、もう、そんなに居たのか。その人口を、その当時の食糧生産高で、賄っていた。
で、元禄七年(1694年)には40万2千人に激増。灌漑技術や農業技術の革新、そして国情の安定が人口増加をもたらした、そんな時代。
時代は下って文政二年(1819年)の高知県の人口は42万7千人で、弘化元年(1844年)には50万4千人。明治三年が51万6000人。
う〜ん。
江戸時代の弘化年間と言えば、まだ、ペリーもやって来ず、龍馬はまだ少年。
そんな時代に、高知県には50万人以上住んでいたのか。
僕らの子供が僕らの年代になる頃には、もう、弘化年間よりも少ない人間しか、高知県に住んでいないことになる。
そう考えると、すごい。江戸時代より少ない人間で、高知県を成り立たせていく必要がある。中山間から都市部への人口移動があった、その末に。
中山間は、弥生時代のような山に戻っていくのでしょうか。それで、日本という国が成り立つのか、どうか。
想像力の、問題でしょうか。江戸時代より少ない人口の、高知県。もっともっと想像してみよう。現実に20数年後にはやってくる、事実として、想像してみる必要、ありますよね。いや、考えるだに、すごい。