徳島城址の女性〔4843〕2016/07/19
2016年7月19日(火)晴れ!
今朝は徳島。
昨日から、とある研修で、来ちょります。今日が2日目。
それにしても、とんでもなく刺激的な話ばかりの、1日目でしたな。いや、すごい。詳しい話は、また機会があれば。いや、すごい。勉強になりました。
今朝も早くから朝礼見学に出発するので、ホテルは7:10発。それまでにRUNを済ませ、朝食を済ませ、にっこりを済ませんといかん。なかなかハードなのでありますが、昨夜も遅くまで語っておりましたので、起きたら5時をまわっちゅうではないか。
急いで、近場の徳島城址をたつくってきました。それでも時間が無いので、今日は高速流し書きだ。
昨日ご紹介した、徳島市から西方にある勝瑞城。
ウィキを見てみると、まあ、その城主やら実質支配者やら、めまぐるしく変遷しちょりますな。陰謀、謀反、下克上渦巻く感じ。
で、その虚をついた感じで長宗我部軍が土佐から侵攻、勝瑞城も攻め落として阿波の支配者と、なった。
その際、元親は、勝瑞城を廃城にしてしまうので、中世からの勝瑞城の歴史は、そこで閉じたのでありました。
でだ。
1582年の勝瑞城攻略から、元親は一気に四国平定へと進む。
しかし、ご承知の通り、秀吉に攻められ、土佐一国安堵となってしまったのであります。その、秀吉の長宗我部討伐に軍功があったのが、蜂須賀さんなんですね。
蜂須賀小六の息子、蜂須賀家政。
その家政くんが本拠に選んだのが、徳島城。
JR徳島駅の裏手にある、標高61mの小山の上。
蜂須賀小六は野盗の出身、というのは都市伝説だ、なんて話はどうでも良いが、徳島城の詰めの段は、なかなか広い。
しかし、天守が置かれたのは東二の丸という、頂上から一段下がった場所なんですな。知りませんでした。写真は、その、天守があったという東二の丸。
この城址、全体的に樹々が大きくなりすぎで、見晴らしがきかんのが残念。蜂須賀家政が築城した頃は、もっとずっと見晴らしの良い山でしたでしょうに。
この城山の麓は、朝からたくさんの善男善女が歩いたり走ったり。なので、城山のてっぺん広場もたくさんの人かな、と思うて駆け上がってみると。誰もいない。
徳島の皆さん、城山のてっぺんにはあまり興味が無いのか。高知市民にとっての高知城とは、ちょっと違うのか。
駆け上る際、途中で、詰めの段から歩いて降りてくる一人の女性。
こちらから「おはようございます!」
「・・・・・」
無視されました。まあ、そんなこともあるか、と思い、詰めの段へ上がって写真を撮ったり風景を見たり。で、再び同じ石段を下ると。
さっきの女性が、また、下から上がってくるではないか。伏し目がちに、静かに上がってくる姿。怖くなったので、もう、挨拶するのはやめました。
早朝の城山。誰にも挨拶せず、静かに登ったり降ったりする、一人の女性。
足は、ありました。
ああ。時間がないので高速流し書きだ。こんなへんてこりんな内容になったのも、時間が無いせいです。見返しできんので、誤字脱字はご容赦ください!
これ、書き始めから今までの所要時間、皆さんが思うちゅうより、ずっと、短いと思います。