介良の冠者、希義と、土佐の小松さん〔4828〕2016/07/04
2016年7月4日(月)晴れ
昨夜は暑うて暑うて、寝苦しかったですな。今日も暑い1日になりそう。善き哉善き哉。夏は暑いに限ります。
昨日は、濱口雄幸生家からながおか温泉まで走るつもりでした。しかし、余りの暑さに意識朦朧。いかん。ここは大人の分別で、電車通りから電車に乗って家に帰ってシャワー。いや〜、暑かった。
昨日走ったのは、この写真の界隈。
この写真は、今朝の高知東部自動車道から介良、鉢伏山を撮影したもの。朝、4時半頃。
まだ薄暗いので、写真がボケてしまいました。でも、鉢伏山の独特のウネウネした形状はわかります。山の右端が、石灰の稲生。山の左側が、介良。
介良は、古くから開けた、山裾の豊かな土地。平安期後期には、伊豆走湯山領の荘園、介良荘となりました。走湯山は、ご承知の通り、源氏との関わりが深い。
平治の乱で源義朝が敗れた後、息子の頼朝が伊豆に流されたのは、そこが源氏に関係が深かったきでしょうか。頼朝の弟の希義くんが土佐、介良荘に流されたのも、同じく、源家に関係深い土地であったからなのか。
そうであるとするならば。この「流された」というのは、罪人に咎を与える、という感じではなかったのか。なんか、養育する、みたいなイメージであったのか。いや、その辺は、よくわかりません。
平治の乱の後の、この、源家の息子たちに対する処遇が、直接的には、平家の滅亡につながったのは間違いないので、なかなかの歴史のアヤでは、あります。
希義くんが、ここ介良に住んですくすく育っていた頃。
土佐では、石清水八幡宮領の夜須荘に、夜須七郎行宗がおりました。石清水八幡宮も源氏に関わりが深いので、七郎さんは源氏方。
では、土佐の平家は。
平安後期、土佐の知行国主は摂関家。で、平清盛の力が強くなってくると、清盛は、自分に関係の深い藤原経宗を、知行国主としたのでありました。
で、その下で土佐の国守となったのが、平宗実。平重盛の息子さんだ。重盛と言えば、清盛の息子で、六波羅の小松という場所に居を構えたので「小松殿」と呼ばれた人物だ。
その場所は、こないだ、京都女子大の北側の道を走って山科、大津へと走った時に、偶然通りかかりました。
その小松殿の息子が土佐国守となり、その配下として、蓮池権守家綱と平田太郎俊遠。この二人が、源平合戦期の、土佐平家方の双璧。
ところで。
高知には、結構「小松」さん、多いですよね。
甲子園で、スコアボードに選手の名前が並んだ時、M義塾以外の高知の高校の場合は、たいがい、小松という選手がおります。
土佐に多い「小松」は、この、「小松殿」重盛さんに由来する、という説がある。小松殿の息子が土佐国守となり、その係累で土佐に住み着いた人々が、後世、小松と名乗った、という話。
ともあれ、頼朝挙兵に呼応した介良の源希義さんは、上記の平家方家人に討たれる。その後、源平合戦が源氏方の勝利に終わると、上記の七郎さんは、褒賞に預かる、てな歴史。戦が続いた歴史。
戦と言えば、今日は7月4日。
昭和20年の今日、高知大空襲がありました。高知市民が忘れてはならない7月4日。
戦争は、いけません。