鏡川の流路と洪積層の地形〔4829〕2016/07/05
2016年7月5日(火)晴れ
暑い暑い。いや〜、暑い。昨夜も蒸せました。夜中の2時過ぎまでは、扇風機が無いとどうにもこうにも。気温も高いですが湿度もね。善き哉善き哉。
ここは鏡川、潮江橋の上。朝4時過ぎ、西の方角を撮影してみました。左に筆山の山影。正面に天神橋の灯りが見える、鏡川。ここが潮江川と呼ばれておった藩政期、架けられた橋は天神橋の1本のみ。天神橋は、真如寺橋と呼ばれました。山内の殿様が、山内家の菩提寺真如寺さんと、筆山北麓の山内家墓所にお参りするのに通った橋。
一本しか橋が架けられんかったのは、もちろん、防御上の戦略。
藩政期初期、山内の殿様が一番恐れたのは、長宗我部の残党。土佐の山中に分散した残党が、いつ、集結して攻めてくるかわからない。
もし、北の山から攻め込んできて形勢不利になったら、お城から南へ逃げ、天神橋を南へ渡って、橋を落とす。残党軍が渡河に手間取っている間に、筆山をバックにして体制を整える。そんな戦略でしょうか。
もちろん、筆山から南嶺を通り、海へと逃げることも想定しちょったでしょうか。それっぱあのリスク管理は、しますよね、戦国武将は。
で、鏡川北岸に、今も「水丁場」の標柱がいくつか残る。藩政期初期、鏡川を12のブロックに分け、ブロックごとに水防組織をつくった、その境界の痕跡。
水丁場は、高知の城下を守る水防組織であると同時に、もし、長宗我部残党が攻め込んできたら、それを防御する軍事組織にもなる筈。一石二鳥の考えは、戦国武将のリスク管理としては当然であったのかも知れない。
藩政期以前。
鏡川は、今より狭い川幅であったと言う。江ノ口川の方が広かった、とも言います。
で、天神橋の向こうで、川は、北に大きく蛇行しちょったと言います。その痕跡が、藩政期には逆U字型の池となり、現在はNTT南局の南、三翠園の東側の変に広い交差点になっちゅう、という訳だ。
何故、鏡川は、そこで北に蛇行していたのか。
そこで「高知平野の地形と沖積層」という優れものの論文を見てみよう。これには、高知の城下の、沖積層の下にある固い地盤、洪積層の地形図が描かれ、数万年前の氷期の地形がわかるようになっちょります。
その地形を見ると、川は、月の瀬橋の辺りから北東に流れて追手前小学校の辺りに達し、そこから右に折れ、潮江橋を通って現在の桟橋通を通って孕の峡谷に流れていた。そんな風景が想像できます。
たぶん、古鏡川は、そんな流れをしていた。
それから幾星霜のうちに、土砂が堆積し、人間の手による灌漑も行われ、現在のような地形が形勢されてゆく。海だった潮江が少しずつ陸地になり、鏡川は桟橋通ではなくて東へと流れて古浦戸湾に注ぎ込むようになる。
しかし、北への蛇行は、藩政期初期まで残った。
そして。治水の為でしょう。流路をまっすぐにし、蛇行部分は池にした。山内一豊さんは、何度も書きますが、治水の専門家ですきんね。
今見える、この鏡川の風景は、元々の地形と、人間の営みの複合的な景色と言えましょう。
う〜ん。川を眺めると、どうしても地学に走ってしまうなあ。