清洲城と名古屋城の地学的考察〔4789〕2016/05/26
2016年5月26日(木)薄曇り
今日はサミットとやらで、どちらもこちらも警備の警察官が多いですね〜。昨日は、大阪から名古屋に移動し、手羽先と味噌カツを食べて泊まりました。
そして。
今朝は5時半起床。いつか行ってみたかった清洲城まで走ってきました。名古屋早朝15kmラン。かなり暑く、汗が噴き出してきましたが、心地よかったです。
で、名古屋駅の新幹線ホームで、真っ黒いスープのミソきしめんを食べてから東京へ。名古屋はそうでもなかったのですが、東京はもう、警官だらけ。あちらにもこちらにも警察官。大変ですね、皆さん。
そんなことには関係なく、写真は今朝の清洲古城跡。
清洲城は、まあ、皆さんご承知の通り、信長が本拠としたお城。一族の織田信友が守護代として本拠とする清洲城を信長が襲い、尾張支配を始めたここでの生活が、天下取りへのスタートとなったとも言える。
自分の足で走ってみて、この地が交通の要衝であることを体感してみようと思いましたが、なんか、よくわかりませんでした。この平野は、幾つもの河川が流れる沖積平野。氾濫平野。その平野で、往時、伊勢街道と鎌倉街道が交わる要衝であった、というのが清洲の立地。
大雨のときは、結構大変だったのではないか、という感じは、する。
ここで得意の地理院地図を見てみよう。地理院地図の「土地条件図」だ。
なるほど。清洲城の界隈は、濃尾平野を流れる五条川の、自然堤防上だ。この写真の場所には天守台があった(いつの時代かは知らんが)という説明もあるが、確かに、少し盛り上がった土地。これは、自然にできた微高地であろう。そこに守護代屋敷が置かれ、尾張の下四郡を支配した。
左手の碑には「右大臣織田信長公古城跡」と」刻まれる。
城を囲む氾濫平野は、攻め込んでくる敵にしてみたら、攻め込みにくい湿地帯であったのかも知れない。
さて。本能寺で信長が討たれ、清洲会議で信長次男の信雄くんが清洲に入城。天正地震や木曽川水害を契機に、とあります。この氾濫平野にあって、洪水には強かったのか、清洲の城は。
しかし、関ヶ原が終わり、徳川の世になって、清洲城は廃城となり、尾張の本拠は名古屋城へ。
地理院地図を見ると一目瞭然ですが、名古屋城は、洪積台地の端っこ。東の山から延びてくる台地の、北端が名古屋城で、南端が熱田神宮、てな感じ。古い宗教施設や軍事施設は、そんな場所につくられる。
洪積台地の上なので、洪水には滅法強い。で、海に近く、交通の便が良い。それが名古屋の有利な点で、それと比較すると、清洲はいかにも、脆弱に見える。
で、「清洲越し」と呼ばれる名古屋遷都が行われ、清洲城のパーツは新名古屋城にふんだんに利用され、有名な「思いがけない名古屋ができて 花の清洲は野となろう」という歌が歌われた訳だ。
しかし、清洲は、その後も交通の要衝とは、なりました。
説明板をみてみますと、美濃路という道が、ある。今朝、行きがけは名古屋からまっすぐ走る県道でした。帰りは、少しクネクネする美濃路を走ってみました。
狭い道路ですが、交通量は多い。古いお寺さんも多い、歴史街道であることは、よくわかりました。
清洲の歴史は、時の権力者が社会構造の中で、何を考え、何を重要視したのかが窺える歴史。そんな歴史を体感する、早朝清洲ランでした。