おちついて死ねさうな草萌ゆる〔4788〕2016/05/25
2016年5月25日(水)薄曇り
今朝は松山。と、言うか坂出。と言いゆう間に、岡山。
昨日の午後、車で松山へやって来ました。会合、祝賀会に出席した後、松山泊。で、朝6時過ぎに出発して香川県の坂出へ。駅前の安い駐車場に車を停め、マリンライナーに乗って岡山。薄曇りの瀬戸大橋の上で、このにっこりを書いております。
泊まっちょったのは、道後。道後の坂を下りて、道路を少し西へ走ると、右手の山裾に護国神社が見えてきます。その護国神社の隣。御幸寺の門前に、きれいに整備された「一草庵」という施設があります。そう。種田山頭火さんが人生の最後に結んだ庵。コロリ往生の本懐を遂げたとされる庵が、今は観光地となって静かにたたずむ。
昔、一度ご紹介したこと、ありますね。
山頭火さんの庵と言えば、山口県の小郡にある其中庵。生涯で四度庵を結んだ山頭火さんの、二度目の庵が其中庵で、最後が一草庵。
この庵にたどり着く前、山頭火さんはお四国をまわっております。松山を出発し、讃岐、徳島とまわる。徳島から室戸、安芸、高知へと遍路してくる風景が、日記になって残されています。で、高知市で遍路をやめ、松山街道を北上して、松山へ帰り、そこで住むところ、つまり、庵を探す山頭火さん。
もちろん自分で探せるわけでもなく、俳句を通じて知り合った知人に頼んで。
伊予では、俳友も多く、知人が訪ねてきたり訪ねたり、という感じになるが、土佐まで来ると、俳句を楽しむ知人も居ないし、訪れてくる人も、いない。
寂しがり屋の山頭火さんは、耐えられなくなって、途中で遍路を切り上げて松山へ帰ったのか。
この一草庵をみつけてもらった日の喜びが、日記に綴られる。昭和14年12月15日のこと。
「たうとうその日ーー今日が来た、私はまさに転一歩するのである、そして新一歩しなければならないのである。一洵君に連れられて新居へ移ってきた。御幸山麓御幸寺境内の隠宅である。高台で閑静で、家屋も土地も清らかである。山の景観も市街や山野の遠望も佳い。」
中略
「すべての点に於て、私の分には過ぎたる栖家である。私は感泣して、すなほにつつましく私の寝床をここにこしらへた。」
後略
この日から、亡くなる昭和15年10月11日までをこの庵で過ごし、日記は亡くなる3日前の10月8日で、終わっている。
今なら、大作家の先生として、お金や生活に苦労することはなかっただろうに。山頭火は、最期まで、日々の生活に怯えながら暮らす。
それでも、日記などを読んでいると、本当に多くの俳友に恵まれ、皆の厚意や友情によって、決して寂しくは無い生活を送っているように、見える。
写真右手の句碑には、有名な句が。
おちついて死ねそうな草萌ゆる
日記を読むと、この句は、3月12日の日記に、友人に書いた手紙の文面として、でてきます。
「伊予路の春は日にましうつくしくなります、私もこちらへ移ってきてからしごくのんきに暮らせて、今までのやうに好んで苦しむやうな癖がだんだん矯められました。ー
おちついて死ねさうな 草萌ゆる」
なんか、自由律俳句の巨人として並び称される尾崎放哉さんの晩年とは対照的だ。尾崎放哉さんの晩年は、小豆島での、あまりにも、悲しい、暮らし。
咳をしてもひとり
山頭火さん、松山でもやはりお酒の失敗は、する。交番のやっかいになって、朝になって後悔し、反省しまくる記述も、日記にはでてきます。山頭火さん、そうでなくっちゃね。
ここは、道後温泉にも歩いて10分。大街道へも、歩いていける。山頭火さんも、道後温泉には毎日のようにつかりに行っています。背後には大好きな、山。山と水と人が好きな山頭火さんにとって、これほどまでに理想的な庵を見つけてきた一洵さんは、完全に、山頭火さんのことを理解しちょったのでありますね。
もし、高知に、山頭火さんと話ができるような俳人が居て、一緒に酒を酌み交わす友人が居たならば。お酒好きの山頭火さんは、高知県人に、あたたかく受け入れられたのでは無いか、そんな想像をしてしまう。其の頃に高知に生きて、山頭火さんと飲んでみたかったような気も、する。