仏像構造線沿いに偉人が生まれる理由(妄想)〔4770〕2016/05/07
2016年5月7日(土)快晴!
新緑鮮やか。この季節の緑は、一年中で一番美しいのかも知れない。特に今日のような雨上がりの朝。地球に生まれて良かった、と思わせてくれる鮮やかな緑。
ここは今朝の野市、新宮に鎮座まします熊野神社さん。ここの緑も、このように見事。なんという美しさ。
このお宮さんは、三宝連山の南東麓、野市中学校の北東に鎮座。天正十六年(1588年)の地検帳にも登場する古い産土神。この界隈が新宮村ということからもわかるように、熊野の新宮権現が勧請されてきたものでございましょう。
このお宮さん、このにっこりひまわりでは何度も幾度もご紹介してきました。あの拝殿に掲げられちゅう絵馬が、なかなか貴重なものだから。
幕末。土佐海援隊士として龍馬とともに活躍した、維新の志士、新宮馬之助さんが、16歳の時に描いたという絵馬。
馬之助さんは、天保7年(1838年)生まれなので、天保6年生まれの坂本龍馬と同年輩だ。で、この近所の寺内さんという農家に生まれるも、ちんまい時分から絵が巧い。そこで、高知の城下で焼継屋を営んでおった親類の家に下宿し、画家、河田小龍さんに絵を習うことになる。
で、地元のお宮さんに、絵馬を御寄進する、ということになった。何度かご紹介したように、絵馬には、「新宮維駿謹書」と署名があります。
本名は寺内だが、この頃から出身地の地名である「新宮」を名乗っていたことも、これでわかる。
で、その頭の良さを小龍さんに認められたのでありましょう。饅頭屋こと、近藤長次郎とともに、神戸の、龍馬が活躍する勝海舟海軍塾へと送り込まれたのでありました。焼継屋修行が名目やったと言います。
それからの活躍はご承知の通り。絵が巧かったばかりに、維新の志士として活躍することになった、マルチな人材、新宮馬之助さん。
写真の石灯籠の向こうに狛犬が鎮座。その台座には、御寄進者の、「寺内喜馬太」とか「寺内榮一」とかの名前が刻まれちょりますが、ご親戚でしょうかね。
この熊野神社の北側には仏像構造線が走ります。秩父累帯と四万十帯の境目の断層。活断層ではない。その仏像構造線沿いには偉人が多い、という話を、丁度一年前、昨年5月8日のにっこりに書いちょります。その後、吉村虎太郎さんちも、仏像構造線沿いにある、ということが判って、興奮したことでした。
土佐の偉人出身地のパターンには、大きく分けて二種類ある。
一つは、日新館の宿毛、名教館の佐川、田野学館の中芸のように、優れた教育機関があった土地。そしてもう一つが、仏像構造線沿い。
もちろん後者は僕の妄想。でも、ホントに、多いんですね、仏像構造線沿いの偉人。
で、今朝は、無理やりその理由を考えてみました。何故、仏像構造線沿いに偉人が多いのか。
仏像構造線の北側、三宝山帯は、優良で豊富な石灰岩層を含むことが多い。これはもう、事実。で、石灰岩を産出する、ということは、その土地は経済的に豊かになる、ということ。で、裕福な村の庄屋さんとか農家とか武士とかは、勉強する機会が、そうではない土地の人々よりも多い。で、そんな中から偉人が輩出される。
ああ。なんだかもっともらしいぞ。