浦戸湊、繁栄の理由〔4730〕2016/03/28
2016年3月28日(月)晴れ!
今朝は高知。
昨日、瀬戸内海の交通の要衝として栄えた鞆の浦のことを書きました。何故、鞆の浦が栄えたのか。その地理的要因だけではなく、潮流の要因もあった、という話。瀬戸内海航路は、邪馬台国の昔から栄え、国内の交流はもちろん、海外との交流の大動脈として重宝されたのは言うまでもありません。その瀬戸内海航路にあって、鞆の浦は、実に重要な役割を果たしてきた、という訳だ。
そこで、今朝は、浦戸。
写真は、会社から南へ下った物部川河口西岸の展望台から見た、浦戸大橋。ズームで撮影しました。美しい浦戸大橋は、内陸に入り込んだ浦戸湾の入り口。その左手が桂浜。山の上に国民宿舎の建物が見えますが、あの辺りにあったのが浦戸城。
浦戸も、実は、ずっと昔から海運の拠点として栄えた場所。
有名なのは紀貫之の土佐日記。承平四年(934年)十二月二十七日。
「おほつよりうらどをさしてこぎいづ。こよひうらどにとまる。」
大津の港を出港した紀貫之一行は、最初の宿泊地を浦戸にしちょります。なかなかゆっくりした旅路ですな。浦戸は、それ以前の律令国家の時代から、物流や海運の拠点として利用されてきたと言います。
そして、中世。
鎌倉時代には、「廻船式目」に登場。「土佐浦戸篠原孫左衛門」が北条義時に船法について答えた、とあるそうですきに、重要な港でありました。
南北朝合戦の際には南朝方の水軍の拠点となった、浦戸。その合戦の際、南朝方が、あの国民宿舎のある山の上に築城したと言います。
そして、室町時代。
昨日の鞆の浦は、勘合貿易の重要港ともなりました。応仁の乱後は、大内氏の圧倒的影響下に置かれた瀬戸内航路。
大内氏と対抗する勢力や、土佐を支配した細川氏などは、瀬戸内を通らない南海路を整備することになったのは、当然の成り行きであったのでしょう。
南海路の勘合貿易の拠点となったのが、あの、浦戸。土佐では、あの浦戸と四万十川河口の下田が重要港湾となり、栄えたのでありました。土佐一条家がわざわざ中村を本拠とした理由も、下田港の貿易による利権があったという話もあります。
戦国期になると、浦戸は軍事上の要所となる。で、朝倉を本拠として土佐の中原を支配しようとした本山氏が、あの山に支城を築いたのであります。そこを長宗我部氏が攻略して支配。秀吉の朝鮮出兵などでも、あの浦戸が、長宗我部元親軍の拠点となったのはご承知の通り。
鞆の浦ほどではないが、ずっと昔から、アンチ瀬戸内海航路であった南海路の重要拠点として栄えた浦戸。瀬戸内海で有力大名や海賊が勢力を増すほど、浦戸は、重要な港として栄えることになったのでありました。
浦戸城のあった山は、半島のように、こちら側に突き出しています。その半島の先っぽが勝浦浜村。ほんのこないだまで使われていたという、勝浦浜という名称。
勝浦浜はかつうらはまで、かつらはまで、桂浜。月の名所の桂浜は元々勝浦浜であった、という話は以前も書いたとおり。
そして、紀伊半島の勝浦や、伊豆半島、房総半島の勝浦とは、非常に関係が深い(紀伊勝浦の漁民が移住してきた?)ということ。
桂浜は勝浦浜で、現在、県が推進する移住政策の先駆者でもあったのでありましょうか。