鞆の浦、繁栄の理由〔4729〕2016/03/27
2016年3月27日(日)晴れ!
今日は故あって鞆の浦。広島県福山市の南、瀬戸内海に突き出した良港、鞆の浦。何年振りだろうか。このにっこりひまわりを始めるずっと前のことでした。久々の、鞆の浦。
数年前、NHK大河ドラマで「龍馬伝」をやった頃、いろは丸事件ゆかりの土地ということで売り出していたのを見て、なかなか抜け目ないと思うたことでした。
久々にやって来ますと、やはり、良い街。歴史ある街並み。その街並みを見事に残しつつ、瀬戸内らしい美しい風景と洒落た街づくりで、観光客を引きつけておりますね。いや、良い街だ。
ここは、鞆の浦の街の真ん中にそびえる小高い丘の上。歴史民俗資料館のある丘。かつて毛利の城として、また、福島正則の城として機能した城。鞆の浦の港、そして瀬戸内海が見事に見張らせる丘。
鞆の浦と言えば宮城道雄先生。
日本の近代的な箏曲を芸術として確立した宮城道雄先生。父親が鞆の浦出身ということで、自分の心のふるさとは鞆の浦と言うて憚らなかった宮城道雄。「春の海」はあまりにも有名ですが、あの曲は、瀬戸内海の春の海をイメージしてつくられたものと言われちょります。
歴史民俗資料館の前に、宮城道雄先生の像があります。
写真は、その像と、鞆の浦の港。
鞆の浦が古くから栄えたのは、良港にして交通の要衝であったから。
瀬戸内海を通行する船は、南に突き出た半島の先っぽにある良港を便利に使ってきた。くらいに思うておりました。迂闊にも。
しかし、鞆の浦発展の理由は、もっと尤もな理由があったのだ。歴史民俗資料館で、その辺の事情を説明展示してくれちょります。
瀬戸内海。満潮の際、紀伊水道から瀬戸内海に流れ込んできた海水は、西へと流れてゆく。同じく、豊後水道から流れ込んできた海水は、東へと流れてゆく。その、東西からの流れがぶつかる地点が、丁度、鞆の浦である、ということだ。なるほど。
潮が満ちる時、その満ち潮に乗って、西からも東からも鞆の浦目指して船がやってくる。そして、鞆の浦で、潮が引き始めるのを待つ。潮が引き始めると、その潮の流れに乗って、進行方向の東西へと下ってゆく。
鞆の浦は、潮待ちの人々が必ず立ち寄る港であった。それにより、必然的に栄えた、ということにかありません。なるほど。鞆の浦繁栄の理由は、そういうことだったのか。
そこで思い出すのが最終氷期、ヴュルム氷期。一番寒く、海水面が今よりも100m以上低かったとされる2万年ちょっと前。
瀬戸内海はほとんど陸地で、紀伊水道へと流れ込む古東瀬戸内川と、豊後水道へ流れ込む古西瀬戸内川という大河が流れておったと言います。その分水嶺はどこだったのか。
上の話で考えると、鞆の浦界隈が分水嶺であったのか、と、考えるのはどうか。福山市を流れて瀬戸内海に流れ込む芦田川は古東瀬戸内川の源流だったのか。
「春の海」のフレーズを頭の中でリフレインさせながら、地学と鞆の浦の歴史をコンプレックスさせました。