筆山の桜2〔4728〕2016/03/26
2016年3月26日(土)晴れ
良いお天気。
昨日の朝は、徳島市内から眉山をたつくってきました。徳島城は、徳島駅の東側の平山城で、蜂須賀氏はそこを本拠とする。で、蜂須賀家の墓所は、市街地西側のランドマーク、眉山北麓につくったという話。土佐山内氏は、高知平野中心部の大高坂山に高知城を築いて本拠とし、南にそびえるランドマーク、筆山北麓に山内家の墓所をつくった。徳島の眉山と高知の筆山は、似た者同士。
しかし、眉山は標高290mあり、ロープウェイの山頂駅界隈でも277m。筆山は、標高117mと言いますき、高さは随分と違います。
戦国期、筆山には戦国武将の城が築かれましたが、眉山に築かれたとは聞きません。その理由を考察してみました。興味、ないですか?
戦国期、土佐中原を伺う戦国武将たちの本拠を見てみると。長宗我部氏はもちろん岡豊山。戦国土佐の決勝戦を長宗我部氏と戦った本山氏は朝倉城の山。戦国七雄の一人であった森氏は、筆山。その他、吉良氏とか安芸氏とか一条氏とか津野氏とか山田氏とか、有力な武将の本拠は、山。しかも、その山は、眺望が良いこともさることながら、水運や陸運の都合が良い場所にある。そして、背後の連山とつながっており、いざというときは、そちらに逃げ込める、というのが特徴であると、私は、考えました。私ですきんね。
そういった観点で眉山を見てみると。眉山の眺望は、海や陸地を睥睨できて実に素晴らしい。戦国の城を築くのにピッタリに見える。しかし、眉山が眉毛みたいに見えるのは、眉山が独立した山だから。西の連山との間に間隔がある。これだと、眉山を本拠にした場合、山全体を取り囲まれやすい。籠城戦は避けた戦国武将たちは、そんな眉山を戦略拠点とはしなかったのではないか。そんなことを考えさせてくれる山の容。
さて。
今朝は、まずは一気に筆山の山頂まで駆け上がってみました。小学生の頃から、何度登ったことか。遠足とかでもビッシリ来たので、非常に馴染みの深い山。しかし、近年、筆山で遠足、などという話は聞かない。高知市民の筆山に対する愛情は薄れてきたのか。
この季節。筆山の山頂公園は、花見のメッカでした。桜の季節、高知の市内から筆山を見上げると、山の上一帯がピンク色になるくらいの桜でした。
しかし。
2004年12月に、筆山公園の桜700本のうち95%がテングス病という病気にかかっていることが判明。この病気、伝染病で、幹から天狗の鼻のように出てきた枝がクモの巣のように密生し、花が咲かなくなる。強い伝染力で、あっという間に、筆山の桜を壊滅させてしまったテングス病。
その前の花見シーズン、2004年3月27日に、筆山公園の桜を、「筆山の桜」と題して、このにっこりでご紹介しちょりますね。貴重な写真だ。
テングス病発覚の翌年、伐採や剪定が行われ、筆山は桜の名所ではなくなってしまいました。
それから11年。
やっと、筆山公園の桜も回復してきました。山頂公園にはボンボリもしつらえられ、お花見の準備。昔の賑わいからは程遠いですが、再び、桜の名所として復活しつつある筆山。
写真は、その、いつも市民がたくさん花見をしていた山頂公園。まだ咲き始めで、誰も居ない山頂。ここに、老若男女、花見を楽しむ風景がありました。
今一度、桜の名所にし、山頂周辺ん樹々を伐採して見晴らしを良くしましょう。そうなれば、この立地と風景は、高知市民の憩いの場として、市民の愛着を取り戻すことができるのではないか。
そんなヤチもないことを考えながら静かな筆山を後にし、鷲尾山方面の南嶺をたつくってきた春の朝。
家の近所の堀川は桜の名所。ですが、まだ、ほとんど咲いてない。本当ならこの週末からを期待しちょった人も多かろうに。午前中から花見をしていたのは一組だけでした。春の日差しを浴びながらの花見。ちょっと、羨ましかったです。