人類の知恵、水稲、田植え〔4722〕2016/03/20
2016年3月20日(日)晴れ!
お彼岸。春分の日。風景が桃色に霞む春の日。
ここは、南国市住吉野。住吉神社が鎮座まします船岡山の南。ここの田んぼは、毎年早い田植えが行われます。今日、通りかかってみると、もう田植えは終わっちょりました。まだ小さい緑の苗が田んぼから顔を出し、風に吹かれて頼りなげに、それでもしっかりと根を張って、そよいでおりました。高知は、これから夏に向かいます。
日本で稲作農業が始まったのは、弥生時代とされます。と、申しますか、稲作の始まりをもって弥生時代というたりもします。で、縄文時代は、採集や狩猟ということになっちょります。
たぶん、最初の稲作は焼畑の陸稲。山を焼いて、酸性土壌の問題をクリアしていく農法だ。
山を焼いたら、灰に含まれるカルシウムやらカリウムやらのアルカリ成分が酸性土壌を中和するので、作物が育ちやすくなる。そんなやり方で、陸稲を栽培していたのかも知れません。
で、水田。
陸稲は、そんな訳で5年に一度くらいしかできず、しかも収量は水稲の半分くらいなので、かけ算すると10分の1。それだけ、水稲というのはすごいんですな。
人口が増加して密集してくると、陸稲ではそれだけの人口を維持できない。で、考え出されたのが水稲。と、言うか、水稲の生産力が人口爆発を生み出したとも言えましょう。
田んぼ。
田んぼに水を張って、田植えをする。この写真のように田植えすると、2週間くらいで土の色が変わり始める。水の下の土には酸素が供給されないので、還元状態が進み、土の中の鉄酸化物が溶け始める。その、溶けた鉄が土を青く染めるんでありますね。
そんなこんなの過程の中で、酸性土壌が中性になり、また、酸性状態では溶けなかったリンが溶け始めて稲の根っこに供給される。
こんな水稲栽培は、今から1万年前、揚子江中下流で始まったということ。そしてアジアに広がる。雨の多い気候、大河の流れる風土にマッチした水稲栽培が、アジアの人口増加に直接寄与した訳だ。
今日のこの話のネタ元は、ヤマケイ新書の「大地の五億年」という本。これ、土壌と地質と、そして生命の関係を実にわかりやすく解説してくれる、佳い本。読むと、人類は、そして生物は、酸性土壌との戦いを太古の昔から繰り広げてきたことがよくわかります。
そして、そんな戦いの中から生まれてきたのが、水稲。
田植えの、この美しい風景は、人類の知恵と努力の結晶。