山田の元々〔4721〕2016/03/19
2016年3月19日(土)晴れ!
今日も春晴れ。朝、会社で仕事をしちょいて、一旦高知市内へモンた後、汽車に乗って土佐山田へ。今日はJA土佐香美酪農部総会。そして懇親会。土佐山田には、味心さんという美味しい料理屋さんがあって、近年はもう、そこばっかし。美味しいですきんね。特に、刺身とお寿司。いや、ホント。
今日も真っ昼間からお酒が飲めて、高知県人冥利に尽きますな。
写真は、土佐山田へと向かう汽車の車内。ジャージを着た高校生がどっさり乗っちょります。
山田。山田と言えば、昨日走っていった万博記念公園の近くにも山田とい地名がありました。と、言いますか、大阪モノレールの、万博記念公園駅の一つ西の駅が山田駅。
昨日も書いたように、あの界隈は丘陵地帯。その丘陵の上の部分を「山田」と呼んだのでありましょう。調べてみますれば、倭姫が天照大神を祀るのにふさわしい場所を探す際、上之山と呼ばれるところに一年滞在し、その際に界隈の丘陵を「山田ヶ原」と呼んだのが起源、とされちょります。なるほど。そんな伝説だ。
なるほど。倭姫。
倭姫は、崇神天皇の娘、豊鍬入姫の姪だ。豊鍬入姫は大和笠縫村で天照大神を祀った斎王。以前にもたつくった、三輪山の麓の檜原神社、つまり元伊勢で、天照大神を祀った訳だが、その姪の倭姫が、各地を巡り、最終的に伊勢の五十鈴川の川上に斎宮を建て、天照大神を祀るようになったのが伊勢神宮。その、全国各地を巡る途中に、あの場所に一年も居たんだ。
遥か後世、その近くの丘陵にあんな公園ができ、あんなオブジェが屹立するようになるとは、倭姫もビックリ。
それはさておき、山田。
高知の山田は、平安期成立の和名類聚抄にも出てくる地名なので、古い。長岡台地の上で、山の上の田んぼ、ということで「山田」になったことは、なんとなく想像できる。
現在の山田の中心部、宝町とか栄町は、江戸時代になる前は、山田野、鏡野と呼ばれたような原野であったと言います。それを、野中兼山先生が中心になって灌漑、開墾し、農地として使えるようになったという山田。
と、言うことは。
洪積台地である長岡台地の上は、地盤が固くて水はけが良い、つまり、農地にするには水が足りない、不便んな土地であった訳です。そこに古くから「山田」と呼ばれる土地があたっと言うことは。
山田野の不毛な土地のどこかに、水の便利の良い田んぼがあり、そこが山田と呼ばれた、という想像ができます。その場所はどこであったのか。「山田」の元々はどこであったのか。気になりますね。気になりませんか?
尚、現在の香美市は、土佐山田町、香北町、物部村が合併して最近成立した訳だが、その土佐山田町は、昭和29年、山田町を中心に大楠植村、明治村、佐岡村、片地村、それに長岡郡新改村が一緒になってできたもの。翌年に野市町の戸板島と逆川、その翌年に大豊村の樫ノ谷、上穴内、繁藤、北滝本、それに角茂谷の一部を吸収した、と、「高知県の地名」にあります。ジャイアンのような勢いで
近隣の村や町から集落を編入する土佐山田町。なんで、そんなに力があったんでしょうね。
それはともかく、山田。
全国に、山田という地名はたくさんあります。ネットで検索すると、上記、大阪吹田市の山田がでてきます。次に出てきたのは、岩手県の山田町。その由来は、
(1)「山」の方言の「たあ(たわむ)」で、山に囲まれた窪地
(2)「山端(ヤマハタ)」の略で、山のふもと
とありました。どっちなのかハッキリしてもらいたいのだが・・・・
どちらにしても、山の田んぼではない。と、言うことは、ここ土佐山田の山田も、山の田んぼではないのかも知れない。元来、田んぼができるような土地ではなく、荒れ野であったことに鑑みれば、そちらの方が可能性が高いとも言えよう。
和名類聚抄にでてくる「山田」は、山に囲まれた窪地であったのかも知れないし、山の麓の土地でったのかも知れない。どっちも、現在の山田には該当する場所がどっさりあります。いったいこったい、どこがその山田の元になったのか。気になりますね。気になりませんか?