桃太郎のおじいさんと、村〔4717〕2016/03/15
2016年3月15日(火)晴れ!
良いお天気。もう、春でしょう。遠くの山は春霞。会社から見える山も、すっかりと春の装い。
高知の山々。今、山と言えば、樹木が生い茂る緑の山。山登りをしても、森や林の中を歩くことになる。山中イコール森、といった認識がありますよね。
しかし、ほんの少し前までは違ったと言います。私も見た訳ではないのですが。
平野の集落から山を見ると、草地や低木の生えた山が、圧倒的に多かったと思われます。森になっているのは、神が棲む信仰の山か、藩や幕府の管理になっている御留山。そして集落もないような奥地の山。
平野の集落から見える山は、ほとんどが里山として、農耕を営む人々の共同管理地となり、肥料や燃料の供給基地となっていた、という話。
以前にも書きましたが、桃太郎のおじいさんは、山へ何をしに行っていたのか。
ネットで調べてみても、ほとんどの答えが、芝刈りは柴刈りで、燃料にするための柴を採りに行っていた、となっちょります。しかし、少なくはありますが、刈敷用の柴、つまり、田んぼの草肥を刈りに行っていた、という答えもありました。
藩政期の、農民同士の争いなどの文書を見てみると、肥料用の草地をめぐる紛争が実に多い。つまり、農民にとって、里山の草肥は、とんでもなく重要であった、ということ。
山野の草を肥料に使うたのは、弥生時代まで遡るとのことですが、近世に、その全盛期を迎えたのでありました。
当時の肥料は、人糞尿、厩肥、刈敷というのがメイン。金肥、つまり、鰯カスなどの購入肥料はまだまだ少なかった時代、刈敷は、非常に重要な肥料であった訳だ。草肥。
で、大量の刈敷を確保する為には、山野は、草・柴状態でなければならない。そんな訳で、農村に近い山々は、草・柴山でなければなりませんでした。
当時の分類では「草山」「芝山」「柴山」「茅山」「松山」「小松山」「杉山」「雑木山」「木山」「竹」などなど。で、刈敷は、このうちの「草山」「芝山」「柴山」がメインでしょうか。
「草」はススキやチガヤで、「芝」はシバ、「柴」がハギ、馬酔木。山ツツジ、黒文字などなど。
なるほど。
桃太郎のおじいさんは、この「柴」を刈りに、山へ入っておったと思われます。おじいさんが刈ったのは、肥料用の柴であったのかも知れない。もちろん燃料用やった可能性も否定はできません。
この柴山は、入会地になっており、農民たちの共同管理。これを犯したら、厳罰に処せられたと言います。
また、田んぼ周辺の草も重要な肥料源でありました。「田の畔や池周りなどの草を刈ってはいけない。もし違反した場合は子供であっても米五升の罰とする」という村掟が記録に残ります。
藩政期の構造。
中心部にサト。「サト」には民家や氏神様、お寺、お墓などがあります。その外側に「ノ」。田んぼがあるのが「ノ」。お宮さんもあったりします。近くの山は「サトヤマ」。刈敷や燃料の採取地であり、ウサギやタヌキ、イノシシも、ここで調達します。山宮もあるのが「サトヤマ」。
その奥が「オクヤマ」。そこでは焼畑などが行われ、山人が住んでおりました。木地師や鋳物師も、材料燃料の関係で、ここに住む。
そしてその奥が「ダケ」。ここは修験の山であったりする。天狗や仙人の場所。
そんなイメージで、この山の風景を眺めなおしてみると、違う風景が見えてくるではありませんか。全部、遠くから見たら高見山みたいに見えたのかも知れない。
ちなみに、この話のネタは、岩波新書の「村」という本。日本の「村」の成り立ちがよくわかり、また、これからの日本の中山間を考える上でも、重要な示唆を与えてくれます。
日本は、昔から、山と川と海とともに、ありました。これからも、間違いなく、ともになくてはなりません。