道、首、県、市〔4716〕2016/03/14
2016年3月14日(月)雨
雨だ。風も、あります。春になるには行ったり来たり。もうちょっとですね。
昨日、道を使った宴会場や、道を使った市、お店、賑わいのことを書きました。しかし、この、「道」という文字は、敬愛する白川静先生によりますれば、なかなか呪術的な成り立ちなんですね。
「字統」によりますれば。
そうそう。「字統」とか「字通」とかの、私も所蔵する文字辞典は、白川静先生が、一人で研究し、編集し、つくりあげたという漢字辞書。文字の成り立ちを、独自の解釈で極めておりまして、それはそれは興味深い。時々、高知新聞にも、白川先生の漢字の解釈が掲載されたりしますよね。
で、「字統」で「道」を引いてみると。こんなことが書いちゃあります。
首を携えて道を行く意で、おそらく異族の首を携えて、外に通ずる道を進むこと、すなわち除道(じょどう)の行為をいうものであろう。道を修祓しながら進み導くこと、それが道の初義であった。
いかがでしょうか。そんな意味であったという「道」。「首」という文字は、もう、そのまんまの象形で、髪の毛の生えた首の形。首は、太古の中国にあって、宗教的に非常に重要なものであった、と。なので、色んな文字に、意外な文字に、「首」が使われる。例えば「県」。
「県」は、元々「縣」ですな。「県」は、首を倒にした形で、系は、それを木の枝などにかける、という形。首を横にして木の枝にぶら下げた訳だ。そうやって、勢力圏の境目で、悪いものが入ってこないように呪術した、ということにかありません。
どっかの集落へ行きよって、その入り口に首がぶら下げたてちょったら、ちょっと、ビビる。
で、「道」で行われた「市」は。
「市」という文字は、市の立つ場所を示す標識の形やそうです。その象形が、市と変化した。
もちろん交易が行われたり、歌垣が行われたり、公開処刑が行われたりする広場であったと言う。広場。そう。道ではない。今でも、基本、広場に立つのが市ですね。海外は大体そうだ。
ところが、日本には、そんな広場というものが少ない。神社仏閣の境内くらい。
なので、たぶん、日本では古くから「道」を利用した「市」が立てられてきたのかも知れない。
昨日、商店街で行われた「おきゃく」は、標準語で言えば「宴」。うたげ。
「宴」という文字は、元々、ウ冠は無くて、女子の頭上に玉を置いた形。つまり魂振りの儀礼を行う、という文字。それが、いつしか、饗宴の意味を持つようになったのだとか。ウ冠が付けられたばあですき、室内で行われたのでありましょう。
そんな訳で、元々広場で行わる「市」を「道」でやるのが日曜市で、建物の中で行われる饗宴を「道」でやるのが土佐の「大おきゃく」という訳だ。
太古の昔から。
広場で行われた交易交流には、芸能などの娯楽が必ずついてきた。もう、これは、人類の本能と言えましょう。そしてそこに飲み食いする店も並び、広場はテーマパークとなって庶民の娯楽の殿堂となった。中世の一遍聖絵などを見ていますと、もう、そんな場面に思わず引きずり込まれてしまう。
そして。日本では、広場だけでなく、「道」も利用して市が立てられるようになり、道も含めたテーマパークが形成された。
高知は、「道」や「水辺」を含めた「宴」と「芸能」と「飲食」との総合テーマパークになれるかも知れない。などと、雨のそぼ降る朝の事務所で、妄想を膨らませる私。
さあ。月曜日。仕事だ。