神谷神社、地域の想い、国家神道、2.26事件〔4699〕2016/02/26
2016年2月26日(金)晴れ!
今日は、あの二・二六事件から丁度80年となる日。雪の皇居で繰り広げられた陸軍指導者の一部によるクーデター未遂事件。あの事件が、陸軍統制派の跋扈を招き、一気に戦争へと転げ落ちていった日本。
昭和10年頃、陸軍は、永田鉄山を中心とるす統制派と、小畑敏四郎などの皇道派に分かれて、熾烈な派閥争い、主導権争いを繰り広げておりました。皇道派の相沢中佐に統制派の首魁、永田が斬り殺されてからは皇道派優勢になったものの、皇道派が二・二六事件を引き起こした為、鎮圧から裁判、その後の主導権を統制派が握ることになり、戦争へと突き進むことになった日本。この事件なかりせば、東条英機なんぞも出てこなかったかも知れない。
皇道。
宗教論的に見てみると、明治維新から後に構築されていった国家神道、国体論などの議論は、非常に独特なものであると言えましょう。国家神道。日本は天皇の国であり、すべて、天皇の下に人々は暮らす。天皇は神と同じであり、日本という国体は天皇によって成立ち、その下に国民を置く。
この国家神道は宗教に見えて、宗教ではない、と、当時の国家神道を統治に利用した為政者たちも言うております。
そう。国家神道は、宗教ではない。
なので、例えば石原莞爾は日蓮中の熱心な信者であり、国家神道を崇めた。日蓮宗の中に、戦争を合理的科学的に推進していく、という思想が生まれ、石原莞爾のような信者が満州事変を起こしてゆく。また、浄土真宗にも過激に国家主義的な思想家が出現し、こちらは超国家主義的と言うても良いような極右思想で天皇を崇め奉り、天皇機関説などを徹底的に排撃して、軍事国家日本に思想的根拠を与えようとした。
国家神道が宗教でないが故に、その思想の中に、日蓮宗や浄土真宗が認められていった、という歴史。なかなか興味深い宗教的構造があった、あの時代。
また、今、国家神道を崇める動きが、政治家なども巻き込んで、出現し始めています。
小生が好きなのは、地域にある、地域の守り神たるお宮さん。氏神様や産土神、荒神様や、お稲荷さん。人々の、素朴な自然信仰に基づく、地域の紐帯としてのお宮さん。神仏習合の時代には、神様であったり仏さんであったり観音様であったり阿弥陀如来であったりした、信仰の対象。
古い神社へ行くと、人々の古くからの想いが込められた空間があり、それがとても良いのであります。
今日は、香川県坂出市の、弊社西日本事業部へ行っちょりました。その近くに、このにっこりでは何度かご紹介した神谷神社さんが鎮座まします。その本殿は古い古い建物で、国宝。日本の神社建築で、建造年代が特定されちゅうものとしては最古。かんだに神社さんの本殿。
駐車場から、その国宝の本殿を撮影してみました。
この本殿が建てられたのが建保七年(1219年)。鎌倉時代になったばっかしだ。
鎌倉時代になる少し前。1156年の保元の乱で、上皇が、配流となりました。崇徳上皇。武士勢力に敗れ、讃岐に流された崇徳上皇。都への想いを募らせながら、そして悔しさに耐えながら崇徳上皇が亡くなるまでの8年間を過ごしたのが、この後ろの山からつながる白峰寺。
その、怒りに満ちた配流先での死から55年後に建てられたのが、この神谷神社本殿。そんな時代の建物であることを考えれば、そのすごさがわかってきます。
今まで、たくさんの人々の想いを見届け、つないできた神社。
神社でも、こんな空間は、好きです。