大衆食堂のある風景〔4698〕2016/02/25
2016年2月25日(木)晴れ!
今日は高知。
昨日の朝は香川の坂出で朝うどんでした。で、香川のうどん。麺が硬いのから柔らかいのから、釜揚げから醤油から、それはそれはバリエーションが多い。丸亀にはボリュームたっぷりの肉うどんが美味しくて安い店もあるし、てんぷらが絶品のうどん屋さんも。もちろんカレーうどんの名店もありますし、観音寺には餡この餅が乗ったうどんまであります。
で、讃岐うどんと言いますと、コシがしっかりして硬めの麺、というイメージがありますが、一概にそうとも限らないのが、奥の深さ。
しかし、手打ちうどんと言えば、太めで硬めの麺を思い浮かべてしまう。高知に最初にできた手打ちうどんの店、二十四万石さんは、それまでの京風うどんとは全然違うコシの強さで、感動的でありました。昨日も書いたように、それができたのは小生が小学生の頃。家の近所、高野寺さんの向かいでした。
あれから40数年。うどんの世界も、バラエティに富みましたね〜。
二十四万石さんができるまでは、高知にはうどん屋さんという専門店は無かったと記憶します。あったかも知れないが、小生は行ったこと、なかった。
うどんは、大衆食堂で食べるもの。
ああ。大衆食堂。あちこちにありましたね。うどん、中華そば、親子丼、カツ丼などの大衆食堂。ショーケースにおかずを並べちゅうのも普通でした。
ここは電車通り、中の橋の交差点。向こうに伸びるのが中の橋通り。帯屋町との交差点に「OBIYAMACHI」と書かれた屋根が見えます。
白いタクシーの横。白い三角屋根のビルと茶色いビルの間。あそこに、ありました。大衆食堂「大安」。「大安(だいやす)」ですきんね、その名も。だいやす。
あそこにあった「大安」で出てきたうどんは、京風の、丸い柔らかい麺のうどん。二十四万石さんができるまで、あれがお店のうどんでした。そんな時代。
この交差点を南へ、中島町の通りを越え、もうひとつ通りを越えた右側にあったのが「百萬食堂」。ひゃくまん。「ま」の部分にアクセントがある呼び方でした。ひゃくまん。
「百萬食堂」では、ショーケースにおかずが入っておりました。メニューには「大安」と同じようなうどんも。そして、思い出すのが日華そば。百萬の日華そば。
うどんのスープに、ラーメンの麺。
そう。現在、赤岡町名物になっちゅう「中日そば」と同じもの。あれを、うちの近所では「日華そば」という名称で提供しておったと記憶します。麺はラーメンで、中華そばのスープの代わりに和風のうどんスープなので、中華を日華にするか、中華を中日にするのかの違い。皆さんのところでは、何と呼びよりましたか?
この南北に走る中の橋通り、シャッターばっかしになってしまった。なんか、寂しい。あの茶色のビルのところが大きなクリーニング屋さんで、何台ものアイロン台からもうもうと蒸気が立ち上がっていた、あの賑やかな風景が懐かしい。
この縦の通りはシャッターが増えたとは言え、帯屋町は、まだまだ元気やと思います。こないだ、徳島へ行っちょりましたが、徳島の商店街はもう、完全なシャッター商店街。理由は自明で、つまり、徳島は関西に近いので、買い物は地元でしなくなった、というだけのこと。道路ができて、安い高速バスが大量に徳島と関西の間を往復しているので、皆、気軽に関西へ遊びに行ってしまうようになった結果だ。
松山の大街道や、高知の帯屋町は、まだ、間に合う。
大衆食堂は無くなり、うどん屋さんのバリエーションが増え、街の風景が変わっていっても、やはり都市の真ん中には人々が集い、交流し、楽しむ場所が必要。道路をつくる前に、人々が集まることを考えよう。