雪、中谷宇吉郎、寺田寅彦〔4661〕2016/01/19
2016年1月19日(火)雪がちらつく
おうの、冷やい。
今朝の皆の挨拶。「おうの、冷やいね〜」
この冬一番の冷やい朝。寒暖計ではそれでも氷点下ではないが、冷やい。昨夜、飲んで帰宅しよったら、風が冷ようて冷ようて、シビコオリよりました。そして、今朝は、小雪が舞い降りる冬らしいお天気。
写真は、ストロボを光らせて撮影してみた今朝の小雪。黒い空に白い小雪。なんか、きれいだ。
雪で思い出すのは中谷宇吉郎先生。雪の研究で有名で、世界で初めて人工雪をつくることに成功した科学者。絵画や随筆、文章をよくしたのは、恩師である寺田寅彦先生の影響が大きかったとされます。
明治11年生まれの寺田寅彦、明治33年生まれの中谷宇吉郎ですき、22才の年齢差。寅彦が東京帝国大学教授の時に、宇吉郎が学生としてやって入学してきた、そんな縁。
この師弟関係は濃密で、色んな影響を受けあっております。
宇吉郎が実験物理学を志したのは、もちろん、寅彦の薫陶によるもの。
寺田寅彦の物理学は、趣味的と言われ、あちこち色んなものに手を出して深めることをしなかった、ということで、後生、批判されたりしちょります。
しかし。寅彦のような自由な発想、興味の広がりが、学問として、実に重要なのである、という再評価をされるようになっております。まさに、その通り。寺田物理学。
東京帝大教授時代に寅彦が書いた文章に、このようなものがあります。
「私の書物は読者に何事をも教えない。読者を教えるべき書物は余りに多い。私の書物は初めから終わりまで?の符号で充されている。私は唯私独りで持て余している?を読者の前にさらけ出して読者の解決を示唆するに過ぎない。私には書くことは考えることである。これが私の書く所以である。」
なるほど。
こういった考え方、発想が、宇吉郎のような弟子を生み出した、ということがよく解る。
その中谷宇吉郎は、寅彦について、こんな文章を残しちょります。
「先生の頭の中に次第に醗酵して来ていたと思われる《新物理学》の体系こそは、誠に人智の恐るべき企てであった。」
「現代の物理学は、量的に計測し得るもの、或いは数学の式で取扱い得る現象の物理学である。自然にはそれ以外の物理現象がいくらもあって、それ等の問題を取扱う別の物理学もあってよいはずであるというのが先生の持論であった。」
寺田寅彦という稀有な物理学者の特徴を、簡潔に言い表しています。さすが、宇吉郎先生。
中谷宇吉郎は、北海道帝国大学教授として、札幌に住んで活動しました。
昭和10年、寅彦は病床につき、容体は悪化していく。
夜中、痛み続ける身体のことを書いたあと、こんな文章を残します。
「夜が明けて繰りあけられた雨戸から空の光が流れ込む。硝子障子越に庭の楓や檜の梢が見え、隣の大きな栗の樹の散り残った葉が朝風にゆれていて、その向う一杯に秋晴れの空が拡がっている。そういう時にどうした訳か解らないが、別に悲しくもなんともないのに、涙が眼の中に一杯に押し出してくる。」
耐えられないような痛みの中で、こんな美しい文章を書くのか。
寅彦の世界観。
同じ頃、こんな文章も書いている。
「独裁下に踊る国家はあぶなくて見ていられない。」
昭和10年12月31日、臨終の場には、札幌から駆けつけた中谷宇吉郎博士も居ました。
この1月31日まで、高知県立文学館で、寺田寅彦没後80年記念の「親愛なる寺田先生 〜師・寺田寅彦と中谷宇吉郎展〜」が開催されています。