徳弘土居城、城八幡、天満宮〔4660〕2016/01/18
2016年1月18日(月)晴れ
さっきまで、雨が降ったりしよりました。風もエライ吹きよりました。
しかし、夜明けとともに、風が雲を吹き払うてくれたようで、青空が広がって参りました。雨やったので、気温は高め。今週は、これからこじゃんと冷ようなりそうな予報。日本列島も、やっと、冬に。
さて。
弊社に一番近い鉄道の駅は、ごめんなはり線の立田駅。今朝は、その立田駅界隈。
立田駅東側。高架の下から西の方角を撮影してみました。
この角に鎮座ましますのが天満宮さん。
その左手の奥。小高い土塁の上には城八幡。その前が、高架の立田駅。
そう。ここは所謂、徳弘土居城の城跡。あの城八幡のある土塁は、土居氏居館の南限と言います。中世、徳弘氏の居城となっちょりました。
徳弘氏は、菅原道眞さんの家系の支族、と伝わります。道真公が大宰府左遷の折、嫡男高視さんが土佐権守に左遷されてやって来たのはご承知の通り。
その際、一緒に下って来たのでありましょうか。
この天満宮は、道真公遺愛の八重の白梅の株を太宰府から持ってきた道真公嫡男高視さんの乳母が、目的地直前の、この地で病没したことに由来するという言い伝えが残る天満宮。そんな訳でこの境内には、白梅の樹が植えられちょります。まだ、蕾が膨らんでもいませんが。
昭和59年に、南国市教育委員会が纏めた「高知県南国市 中世城館跡」という報告書があります。この報告書には、南国市内の47の城跡や土居跡を紹介しております。
中世、そんなにお城があった南国市。いや、もっとあったにかありませんが、調査ができたのが47。
それぞれの集団が武装し、複雑な力関係の中で生きていた、そんな時代。その本拠である居館の周囲には防御のために土塁が築かれ、場合によっては堀が掘られ、どの有力者と結び付くのが、自分たちが生き残る道なのかを必死になって考えていた、そんな時代。
その報告書で、徳弘土居城についての記述を見てみましょう。
戦国末期に徳弘土居城の主であったのは、徳弘三郎衛門さん。はじめ山田氏に仕え、その後、長宗我部氏の属した、とあります。
しゅっと近くに立田氏という有力在地豪族がおりますので、そことはうまく関係を保っていたのでありましょうか。
報告書では、この天満宮の由来について、こう書かれちょります。
「徳弘氏は菅家の支族といわれ、土佐の国に来て立田の庄に居たが、功があり城主となった。そして主家の菅家及び観音像を安置して祀ったのが、立田天満宮の始まりであるという。」
なるほど。最初は、たぶん、立田氏の配下でシマカにしておったのでしょう。その後力を蓄え、立田氏の有力武将として、独立した城を任されるようになったのかも知れない。
で、天満宮の由来には、高視さんの乳母の話は出てこない。
たぶん、この話の方がある程度真実を伝え、乳母の伝説は、後になって脚色せれていったのではないか。話が美しくできすぎちょりますもんね。
それはともかく、南国市のような歴史のある土地には、古い城跡がたくさん残ります。そして、その、たくさんの城跡には、今も、城八幡が祀られちゅうケースが多い。
戦国の世を経て統一政権が確立し、武装勢力を各地に置いていく訳にはいかんなった時代に、城は廃されたでしょう。しかし、そこで繰り広げられた歴史や思いをないがしろにはできず、城八幡という形で祀られるようになったのでしょうか。
つわものどもの夢の跡。