69年前の南海地震〔4632〕2015/12/21
2015年12月21日(月)小雨
小雨の朝。ここは、今朝4時の鏡川。中の島の堤防上から筆山方面を撮影しました。
筆山のこちらからは、某施設のサーチライト。厚い雲に吸い込まれてゆく光の筋。
69年前の今日。昭和21年12月21日午前4時15分頃。昭和の南海地震と呼ばれる、南海トラフの大地震が発生しました。4:15分というと、この写真を撮った時間に近い訳ですが、世間は寝静まっている時間帯。突然の巨大地震に、驚き慌てたことだと思われます。
小生の母親は、当時浦戸に住んでおり、誰かともなく津波が来るぞ!と叫び始めたので裏の浦戸の山へ駆け上ったと言います。そして、眼下を、大きな船が津波で流されていくのを見た、と言います。昭和の南海地震は、歴史に残る南海地震の中では、例外的に規模が小さかったとされますので、浦戸の町が流されることはなく、家は無事でありました。
この写真の対岸は潮江。当時は一面に田んぼが広がる地域。鏡川沿いや、筆山の麓の塩屋崎界隈、高見山の麓、孕の南嶺の北麓にだけ、家が建っておりました。
その広大な田畑で農業を営んでおられた、野崎貞美さんという人物が「昭和南海地震の記録」という日記を残してくれちゅうことは、以前にもご紹介しました。その日記を、生活創造工房の大野さんという方が冊子にしてくださったのは、今年の5月のこと。
改めて、その日記を見てみました。
「突如大閃光と不気味な地鳴りを伴い大地震となる。直ちに跳ね起き秀子(五才)を抱き上げた。30cm程左右上下にゆさぶられる感じである。棚の物はガラガラと落ち始めた。壁が落ちる迄は家は倒れる事なしと聞いていたが、この強震ではジットしては居られない。妻、晴美は正勝(二才)を抱いて早、戸外に出て居る。」
「この時、北の塩屋崎、北百石町、桟橋通り等の人々が暗闇の中で人を呼ぶ声、泣き叫ぶ声など手に取るように聞える。被害は相当大きいらしいと直感した。」
この後、孕の水門を閉めるべく急行するも、侵入してくる海水の勢いには手の施しようもなく、中堤まで下がって海水侵入を食い止めよう、とします。しかし、中堤も超えた海水は、潮江一帯を全部海にしてしまった、そんな風景が日記に書き留められております。
この時は、野崎さんは知らなかったことですが、地震によって地盤がかなり沈下し、海水がその上を襲うことになった訳だ。
ここから、毎日、塩水に浸かったまんまの葱を収穫したり、堤防の修復作業に出たり、と、必死の作業が連日続きます。
興味深いのは、地震後、浦戸湾の干潮満潮のサイクルが完全に狂ってしまい、予想ができんような干満の動きを見せていること。なので、堤防の決壊した箇所では、不定期な干満のたびに、海水が激流となって流れ込んだり流れ出たりを繰り返しておったようです。それが、復旧の妨げにもなっちょります。
この当時、上にも書いたように、人家は山裾に多くありました。山裾の、少し海抜が高い土地。たぶん、昔の南海地震などでも大丈夫であったような土地に、家々が並んでおったのだと思います。この日記では、潮江地区で、人家が長期浸水しちゅう話はそんなに出てきません。
が、この写真の場所から北、下知界隈については、こんな風に書かれちょります。地震の3日後、12月24日のこと。
「今日は下知の野中さん宅に自転車で見舞いに行く。城見町、田淵町、南、中北の新町は、昨年の空襲では焼け残ったが、底地であり地盤が軟弱な為、地震に際しては条件が悪い。外画の堤防が数カ所決壊しているので全地域浸水。沢山の家が倒れ、それが水浸しとなって板切・道具類、塵箱等が浮き広がり実に気の毒な有様である。下町の何千人かの人々は、潮汐の干満に大自然のなすがまま、床より上に海水が上がったり退いたりである。」
下知界隈の被害が甚大であったことが、この日記からもわかります。
地震からの復旧作業を進める中で迎えた正月。
元旦には、奥さんの実家に招かれて、お酒を飲んでごちそうを食べています。少し心にゆとりが出てきた感。その実家は高見なので、野崎さん宅からはしゅっと。ただ、道路は冠水で通れん所がある、というので山道伝いに行ったとのこと。「『お里があんまり遠いので山を越えて来た』とシャレを言う。」と日記にあります。
この野崎さんの息子さんは、酪農家さんで、小生も子どもの頃からこじゃんとお世話になった方ですが、その野崎さんも、こんな事言うて周囲を笑かす方。土佐のおんちゃんは、非常時でも、なかなか面白い。
野崎貞美さんが、この日記を本にしたのは昭和36年。その序文に「後の世の人々が大地震に処するに何かの参考ともなれば幸いである。」とあります。
先人の思いを無駄にせず、対策や対応に活かしていくのが、我々の責務。