不忍池と東京の地形〔4595〕2015/11/14
2015年11月14日(土)曇り
今朝は東京。昨日の夜、岩手から新幹線で移動してきました。
浅草橋のホテルに入って、ホテルから歩いて7分くらいのところに見つけた銭湯へと出かけました。昭和26年創業で、番台の風情も懐かしい、昭和感満載の銭湯、三筋湯。浴槽の壁面には大きな富士山。その前にしつらえられた枕状溶岩が、雰囲気を盛り上げる。
脱衣所の前には小さな庭。こないだ入った人形町の「世界湯」と、かなり似通ったつくりになっちゅうのは、偶然ではないと思います。
良い銭湯でした。
で、今朝は上野界隈をたつくってから、築地へ。
土曜日の早朝。御徒町から上野にかけては、まだ夜の続きの若者も多く、猥雑な空気が嬉しいではありませんか。
写真は、不忍池を南から眺めたところ。右手が上野の山で、寛永寺。正面に弁天島の灯り。不忍池は、江戸が栄えた時代から、江戸の庶民を楽しませる水辺の空間として親しまれてた、自然の池。
東京には、ローマと同じく7つの丘がある、と、こないだ書きました。上野台地」「本郷台地」「小石川・目白台地」「牛込台地」「四谷・麹町台地」「赤坂・麻布台地」「芝・白金台地」。
洪積台地が、江戸の起伏の多い地形をかたち作っております。
そのうちの二つ、上野の台地が右側の寛永寺の山で、写真左手に本郷の台地。忍ぶ忍ばず無縁坂は、本郷の台地へ上がっていく坂ですな。
で、その二つの丘の間にあるのが不忍池。
二つの台地の間の谷を流れていたのが古石神井川。
洪積層の下の地層の傾斜の関係でしょうか。流れてきた川が、ここで滞留して池のようになった訳だ。
今より数メートル海水面が高かった縄文海進の時代、今から6000年位前には、ここまで、東京湾が入り込んでおりました。その後海退が進み、取り残されたのが、不忍池。
現在の東京の街は、世界の巨大都市に例を見ないほど、緑の多い都市。これは、江戸時代の街づくりが今に残るから、という話は何度も書いてきました。
台地の尾根筋を通る主尾根道。そこに面して、台地の斜面の地形をそのまま利用した広大な武家屋敷。江戸の中心部に広がっていた武家屋敷は、明治になって、一時的に畑にされたりしたところもあった様ですが、その後、公園や学校、大使館、公共施設などに姿を変えた。しかし、緑と水を見事に配した武家屋敷の文脈は受け継がれ、それが、現在の東京の風景をかたちづくっている。
台地と台地の間の谷筋には、近世以前には百姓地がありました。江戸ができ、市街地が広がるに連れて、そんな低い百姓地は町人の街になり、庶民で賑わう街が広がっていった。
ここ、上野の丘の下。
ここから東側へ、浅草寺の微高地との間の低い土地には、そんな庶民の街が広がった。そこは、明治になり、大正になり、昭和になり、平成になっても、そんな文脈が活きた庶民の街。猥雑で賑やかで活気溢れる街は、台地の下の低湿地にできる、という必然性があったのであります。
江戸を走ると、そんな空間人類学的なことを考えてしまいます。
考えながら築地まで走り、外国人がこじゃんと増えた築地の、外国人が入って来ないカレー屋さん「中栄」で、キャベツたっぷりの印度カレーと、胡椒の効いた卵スープを食べて帰って来ました。
今日も東京を堪能しております。