野市、立山神社と大高坂氏〔4552〕2015/10/02
2015年10月2日(金)晴れちょります
夜明け前までは雨が降りよりましたが、夜明けとともに晴れてきて、今は青空。良いお天気になりました。
昨日、高知市役所本庁舎解体の話を書きました。で、あの界隈を中世に支配しておった大高坂氏のことも。
大高坂氏のことが詳しく出てくるのは、いわゆる「佐伯文書」と呼ばれるもの。南北朝期の文書で、土佐の南北朝史研究は、この文書に負うところが大きいのはご承知の通り。
で、その文書によりますれば、建武三年(1336年)から、大高坂城界隈での南北朝の合戦が始まって、1340年まで激戦が繰り広げられたとされます。1340年、南朝の英雄、大高坂松王丸は討ち死にした、とされます。
では、大高坂氏は、どんな領主であったのか。これは中々難しい。
南北朝合戦での敗戦後にも大高坂氏の名前は出てきます。戦国期には、土佐の中原を支配した本山氏の支配下に大高坂氏の名前が見え、長宗我部時代まで続く。
松王丸の前はどうなのか。
で、こんなのを発見しました。
現香南市、野市の立山神社さん。平安期の「三代実録」貞観十二年(870年)条に出てくるので、こじゃんと古いお宮さん。藩政期の頃には立仙大明神と呼ばれよったにかありません。
その立山神社のことが、立山神社界隈を支配しちょった香宗我部氏の文書に出てきます。戦国期には香宗我部郷の総鎮守ですきんね。
その文書によりますれば、立山神社の地頭(香宗我部一族)が、立山神社の社領である神田1町が、大高坂郷にあったそうだ。その神田が御家人大高坂助貞らに「押妨」された、という申し立てを六波羅に提出した、という文書があるということ。その時期は嘉暦二年(1327年)。
松王丸が活躍する南北朝合戦が始まる9年前。まだ、後醍醐天皇の建武の新政が始まる前。つまり鎌倉時代末期。
鎌倉時代の御家人「大高坂氏」が、ここに見えます。
結局、六波羅の、返しなさいという裁定後も、「押妨」をやめなかった、と言います。かなりの力を持っておったことがわかる大高坂氏。この頃から幕府に対しては反抗的であった大高坂氏。南北朝波乱の素地は、この頃からあったのかも知れない。
写真は今朝の立山神社。東部自動車道のしゅっと北側。良田の中に森があり、その森の中に鎮座ましますお宮さん。
初めてお参りしました。良い神社だ。
地域の皆さんに大切にされゆうことは、境内の美しさを見れば一目瞭然。
天保時代の手水石や文政期の石灯籠などもあり、その由緒を伝えてくれます。
興味深いのは土俵。
ビックリしました。このように、拝殿の真ん前に土俵。鳥居をくぐり、手水で清めで参道をまっすぐ進むと土俵に突き当たります。これは、ちょっと珍しいつくり。これ、間違いなく土俵ですよね。しばらくここで奉納相撲をやったような気配はないが、しかし立派な土俵。ここで、かつては賑やかに相撲が繰り広げられておったのでしょうか。
大高坂氏との関わりが文書にでてくる立山神社。雨上がりの境内は、とても美しゅうございました。良い神社です。