赤地名、塩浜、赤岡獄舎、キリシタン〔4447〕2015/06/19
2015年6月19日(金)曇り
昨日はあれから高知へ帰り、会社でお客様と過ごした後、飛行機で大阪へ。で、お仕事を済ませ、夜、汽車で高知へモンてきました。行ったり来たり。で、今朝は高知。
昨日、坂出の久米式塩田について書きました。高知でも、海沿いに広がる塩田地帯があったのはご承知の通り。一番規模がデカかったのは、赤岡町南部。旧吉川村から赤岡、岸本と、塩田が広がっておったと言います。長宗我部地検長にたくさんの塩浜が見え、製塩従事者の数も多いことから、土佐の製塩中心地であったことがわかります。
藩政期に確立した、昨日ご紹介の坂出入浜式製塩と比べてどうであったか。やはり、日照時間が多くて日差しが強いとは言え、太平洋からザブンザブンと波が押し寄せる太平洋より、穏やかな瀬戸内海の方が条件よかったことは素人にも想像できます。
赤岡の塩浜。
ところで、昨日、坂出市にある「青ノ山」について触れました。「青」地名と葬送の関係。「青」がつく地名には、葬送に関係する場所が多い、という民俗学説。
平凡社発行「高知県の地名」を見てみますれば。
「青」地名は少ない。実に少ない。では「赤」地名は。
う〜ん、多い。「赤」の付く地名は、赤野、赤木、赤石、赤泊、赤崎などたくさん。そして、赤岡。
「赤」地名の由来、有名なのは関東の赤羽でしょうか。はい。地学。
赤羽駅の西側。京浜東北線の西側は、崖のようになっちょります。これは、洪積台地を、荒川などが開削してできた崖。なので崖の斜面には洪積層が見えます。そしてそこは関東平野。火山灰が降り積もって関東ローム層を形成し、洪積層に積み重なっちゅう。赤羽西側の関東ローム層は、鉄分を多くむんでありましょう。酸化して、赤い色の土となる。それが、赤羽の「赤」。土地の色。
では、高知の「赤」地名の由来は。
これはなかなか真相はわからんにかありません。安芸虎で有名な有光酒造さんは、安芸市赤野にあります。有光酒造さんのホームページには、こう書かれちょりました。
以下引用
ここの地名の『赤野』は、昔々ある高祖が四国を旅している途中に、 この地を訪れた際にあたり一面のススキの穂が夕日に 染まり真っ赤に輝いてる光景をみて感激し 「ここを赤野と呼ぶようにすると良い。」 と言ったのがその名の由来だそうです。
以上引用
なるほど。ロマンチックだ。「土地の色説」はないんでしょうかね。赤野の丘が、赤い色をしていたのかどうなのかは、ちくとわかりません。
赤野も、そして赤岡も、海沿いには浜堤が東西に延びております。赤岡地区では、海抜10mくらいの浜堤になり、その上に集落があるのはご承知の通り。浜堤は基本的に砂地なので、関東ローム層のように粘土質の赤土ではない。では、何故、赤岡なのか。謎だ。
ここで妄想。
「赤」地名で有名なのは赤穂。兵庫県の赤穂。赤穂も、製塩で有名ですよね。製塩が盛んな場所に、赤地名。塩が、何かを錆びさせて、赤地名、という妄想が頭の中を駆け巡り始めたではないか。いや、妄想です。
写真は、赤岡の浜堤上の道。国道から西側、南町。ここに、真新しいコミュニティセンターがあります。この界隈なのかどうなのか、昔、「赤岡獄舎」がありました。監獄。
そこに明治初年、浦上四番崩れのキリシタン120名のうちの男子70余名が、収監されたと言います。浦上四番崩れは、幕末から明治初年にかけて行われたキリスト教弾圧。
江戸幕府によってキリシタン弾圧が行われておったのは、皆、知っております。そもそも慶応3年(1867年)に、幕府によってキリシタンが捕らえられ、拷問によって改宗させられようとしておりました。翌年、幕府は倒れて明治政府となりますが、新政府は、天皇を神とし、神道による祭政一致の政府を目指したんですな。で、キリスト教は、藩政期に引き続いて弾圧することにした訳だ。明治になっても行われていたキリスト教弾圧。
赤岡獄舎につながれた70余名のキリシタンは、4年間の拷問に耐え、一人の改宗者も出さなかったと言われます。
明治政府がキリスト教を認めたのは明治6年。
赤岡で、近代キリスト教が盛んになったのは、そんな経緯があったから、と言われております。