高天原、関、古墳、お墓、飛鳥井家〔4448〕2015/06/20
2015年6月20日(土)曇っちょります
昨夜は久々に走って帰りました。ちくと趣向を変えて、少し北寄りの曙街道。新しくできた、高知市と土佐山田を結ぶ広い道路、曙街道。心地よい汗をかきました。
で、今朝は自転車出勤。電車通り沿いを走って出勤してみたのであります。
ここは今朝、5時前の関。せき。住所で言えば高知市大津。舟入川沿い。紀貫之が船出したという、平安期の港があった舟戸から言えば少し東。なので、平安期も陸地であった場所。
平安期は、ここは関という地名ではありませんでした。当たり前ですが、舟入川に堰が構築されたので「関」という地名になったのは明らか。舟入川は人工水路で、野中兼山先生によってつくられ、完成したのは万治三年(1660年)。失脚する3年前だ。で、灌漑のために、ここに堰が構築されたのでありますね。ここから北へ引かれた灌漑用水は、北丸、西丸、田辺島を経て高須村長場江の左衛門丸へ。南へ引かれた用水は、東丸、鹿児丸を通って浦戸湾へ、とあります。今も、ご覧のように堰があって、水門によって管理されております。野中兼山伝統の、堰。
今、「関」と申しますと、この奥、山に囲まれたエリアを指します。この山は高天原山。コの字型になった山で、その内側に囲まれた部分が「関」。
向こうに高天原山が見えます。こちら、北側の大津からみたら高天原山で、向こう側、南の介良から見たら高間原山。
この界隈、古墳だらけ。高知でも、古墳群が一番集中する場所かも知れません。
このにっこりでも、この南東にある明見彦山古墳とか、あの高天原山山頂界隈の古墳群をご紹介したことがあります。他にも、小奈路古墳やら三ツ塚古墳やら六郎山古墳やら、たくさんの古墳が集中する、このエリア。古代から、間違いなく重要視されてきた山ですな。
関の入り口の標高は2.8mくらい。中へ入って関中心部でも3m。縄文海進の時期には、間違いなく海が入り込んだ湾であった、関。弥生期になり、山裾は、水田耕作適地になったでしょうか。山裾周辺の水が豊かな地帯に水田を耕作し、徐々に人口が増え、首長は有力者になっていったのでありましょうか。
立派な古墳をつくった有力者は、どこに住んで、そんな生活をしておったのか、気になるではありませんか。
こないだうちからの民俗学で言えば、この山は青の山、ということになるのかも知れません。古墳がどっさりの、山。しかし、現在の地名には、青を連想させるようなものは残っちょりません。
この山のお墓で思い出しますのは、飛鳥井曽衣さん。この山裾近く、小高い場所に、飛鳥井曽衣さんの墓所があります。飛鳥井家は、藤原北家の流れを汲む貴族で、蹴鞠を家業とする家柄。蹴鞠の宗家。で、曽衣さん、長宗我部元親に。蹴鞠を指導した、という人物なんでありますね。
随分前、土佐史談会の史跡巡りで、地元史家の方にご案内して頂きました。そのお墓、少しでもいじったり、転がる石を取っていこうとでもしたら、祟りがある、という説明を覚えちょります。貴人と祟り。なるほど、と思うたことでした。
貴人の祟りといえば崇徳上皇。保元の乱に敗れ、讃岐に流されて失意のうちに憤死した崇徳上皇は、日本一の祟り神かも知れません。すさまじい祟りを、関係者にもたらした崇徳上皇。祟りを鎮めるために様々なことが行われましたが、その一つに、京都に建てられた白峯神宮があります。崇徳上皇をお祀りし、怨霊を鎮めるために建てられた神社。その神社が建てられたのは、飛鳥井家の屋敷跡地。
白峯神宮ができて、境内の地主社に、蹴鞠の守護神精大明神をお祀りしたことから、今はサッカーなどの球技の神様として人気なんだそうでありますね。崇徳上皇もビックリ。
その飛鳥井家の流れを汲む飛鳥井曽衣が、土佐で長宗我部家に蹴鞠を教え、その後も代々土佐に住んで、幕末近くに国学者鹿持雅澄を輩出した、という訳だ。
ああ。今日も話が脱線するする。