小学校のない風景〔4445〕2015/06/17
2015年6月17日(水)晴れ
梅雨の晴れ間の心地よい朝。今、高知駅で、このにっこりを書きよります。今日は高松で業界の寄り合い。そこに出掛けるべく、朝の高知駅にやって来ました。自転車で。
写真は、その道中の追手筋。追手前高校の南東の交差点から、新図書館方面を撮影してみました。工事が始まった新図書館。高知県立図書館と高知市民図書館が一緒になる、という、まあ、全国でも初めても試みで、その成否が注目されるところではあります。
館長を二人置く、など、色々と突っ込みどころは満載ですが、今日は書きませんよ〜。
今日は、この土地の話。
ここに、一昨年まで、高知市立追手前小学校があったのはご承知の通り。小生が6年間通うた、懐かしの小学校。その校舎が取り壊され、埋蔵文化財の発掘調査の現地説明会があったのが、2013年11月30日。藩政期の、武家屋敷の遺跡。期待しちょった中世のものはなく、ここは、藩政期になって、都市として開発されてきたことがわかりました。
で、藩政期初期には、どうやら、水路、クリークのようなものが縦横に走っておったにかありません。元々、三角州のような湿地帯。そこを都市にした訳だ。
現在の高知市街地は、湿地帯でした。古代は海。で、中世の頃に陸地化が進むも、まだまだ荒れた土地でございました。大高坂氏は、高知城の山、大高坂山を本拠として、その周辺部に城下町を形成して、勢力を持ちました。
戦国期、この南東、現在の堺町界隈を本拠にしちょったのが国沢氏。鏡川の蛇行によって形成された丘の上に居館を起き、周辺を支配。湿地帯と、不毛な野原が、その北側に広がっちょった戦国時代。
国沢氏は、戦国中盤、朝倉を本拠にして土佐一国支配を狙う本山氏の支配下にありました。しかし、長宗我部元親が勢力を伸ばしてきて、永禄三年(1560年)に、長宗我部支配下に入ります。
おう。永禄三年と言えば桶狭間の年ではないか。この頃、全国各地で重要な国盗り合戦が活発に行われ、集約化が進みつつあった訳だ。
この時の国沢家当主が国沢将監。
その後、堺町の国沢城は安堵されちょったものの、関ヶ原で長宗我部が敗れると、当主、国沢能明は山田に隠棲、とあります。
ところで、こないだ、宇佐から浦ノ内界隈のグーグルマップを見よりましたら、國澤将監神社という神社を発見。宇佐から横波半島への橋を渡って、しゅっと右側の集落、井尻に。何故、堺町の国沢城のご当主を祀る神社がこんなところに鎮座するのか。今度行って、調べてみんといけません。世の中には知らないことがたくさんだ。
それはともかく、この風景。ここに巨大なビルが建つ日も近い。
小生が追手前小学校へ通いよった時代。
同級生であった、この角のしゅっと南にあった甘味屋の息子は、今は中学校の校長。同じく同級生であった、帯屋町の文具屋の息子は、その新しいマンションの右に、新しいビルを建てよります。スタバが入る、商業ビル。
時は流れ、風景も、社会もどんどんと変わってゆきます。