八幡様、道鏡、長谷部教授〔4444〕2015/06/16
2015年6月16日(火)薄曇り
ここは野市、上岡八幡宮。何度も書いてきましたが、天正16年(1588年)の物部庄地検帳に「上岡八幡宮宮床」の記録があるので、その頃には八幡様として成立しちょったことは間違いない。どんな経緯で、八幡様をお祀りするようになったのかは、まったくの謎。
八幡様。八幡神。八幡大菩薩。
日本には、本当にたくさんの八幡様が鎮座まします。もちろん、源氏が、武家の神様として信仰したりしたのが、広まるきっかけにはなったでしょう。
しかし、八幡神、実は、神話の中には登場しない。比較的新しい神様であったりします。元々は、九州北部、宇佐氏の氏神様にかありません。今は、どの八幡様にも応神天皇がお祀りされちょりますが、八幡神に応神天皇が習合したのは、奈良時代から平安時代くらいとのこと。
奈良時代。
それまで、歴史に登場しなかった八幡神が、突如として表舞台に躍り出ました。奈良、東大寺に大仏が建立されたときのこと。
宇佐の八幡神が、「この大仏建立の事業は、私があらゆる神々を率いて、必ず成し遂げられるようにする!」という託宣を下した、という話。で、大仏が鋳造された天平勝宝元年(749年)に、宇佐の八幡神は、女性の禰宜を依代にして、紫の輿に乗って東大寺に入り、大仏の守護神となったのでありました。
大仏を守る神様。なかなかハイブリッド。で、八幡大菩薩の神号を与えられた八幡神。
しかし、このハイブリッドな神様の登場の仕方は、かなり唐突。託宣をよくする、という評判だけで、こんな重要な地位を獲得したとも思えないですが、どうなんでしょう。
そしてそのすぐ後、日本を揺るがす託宣事件で、宇佐八幡宮は、更に有名になったのでありました。
ご存知道鏡事件。
女帝、孝徳天皇が重祚して称徳天皇になり、道鏡をとんでもなく寵愛して法王にまでさせました。で、自分の皇位を、道鏡に譲ろうと画策した訳だ。その際、託宣で有名な宇佐八幡宮から「道鏡を皇位につけたら天下は太平になる」という趣旨のお告げがあったとして、称徳天皇は、道鏡を天皇にしようとしたのでありますね。実際は、短絡的な犯行ではなく、かなり周到に人事を道鏡派で握り、各方面から外堀を埋めていこうとした、計画的な策略。もちろん託宣も、道鏡派が手を回したもの。
しかし、これには反対意見が噴出。
称徳天皇は、腹心の和気広虫を宇佐八幡宮に出向かせ、今一度、道鏡を天皇にするという託宣をもらって来るよう画策。しかし、和気広虫は身体が弱いのを理由にして、弟の清麻呂を推薦したのであります。で、和気清麻呂が、称徳天皇と道鏡の期待を背負いながら宇佐へ。画策済みなので、当然、道鏡を天皇に、という神託が降りるはずでありました。
しかし。
そこで清麻呂が得た神託は、「皇族でない者、無道の者を皇位につかせてはならん!」というもの。
自民党の意図を汲んで合憲である、という発言をすると期待されちょった長谷部教授が、憲法違反である、と発言したようなもんだ。
自民党もビックリしたでしょうが、道鏡もビックリ。
称徳天皇と道鏡は激怒し、和気清麻呂を別部穢麻呂(わけべのきたまなろ)と改名させて大隅半島へ流罪にしました。いや〜、大人気ない。
その後、称徳天皇が亡くなって庇護者を失うた道鏡は失脚、左遷。
弟の弓削浄人とその息子達が、土佐に配流となったのは、ご承知の通り。
無理を通そうとしたらいけませんな。