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今日のにっこりひまわり 毎日健康社員日記

野中兼山、山田堰、神母ノ木、山田高校〔4430〕2015/06/02

野中兼山、山田堰、神母ノ木、山田高校

2015年6月2日(火)薄曇り

昨日、野中兼山ゆかりの、父養寺あじさい街道と上井川のことを書きました。物部川東岸の、野市界隈を潤すのは町田堰。
で、その上流へ行くと、物部川西岸の広い広いエリアを潤す山田堰。野中兼山の事績の中でも特筆すべき、大土木工事でございますね。

物部川が、四国山地から香平野に出てくる、扇状地の扇頂部。そこに、大規模な堰の工事が始まったのは寛永16年のこと。1639年。養父の死により家督を継ぎ、土佐藩の奉行職となって3年目。まだ、満24才という、若き俊英野中兼山くん。
その後、兼山は土佐藩の西端から東端まで、様々なインフラ整備を行うのでありますが、その最初に手がけた大事業と言うたちかまんかも知れません。しかし、山田堰が完成するのは寛文4年。1664年。なんと、25年もかかった大工事。兼山さんは、その前年の寛文3年に讒言によって幽閉され、亡くなっちょりますので、堰が完工するのを見ることはできなかったのでありますね。

山田堰、物部川の洪水の度に、被害を被ってきました。しかし、野中兼山さんが構築した基本部分は踏襲し、改修に改修を重ねてきた歴史があります。なんせ、斜めに湾曲して構築された技術水準は、最先端であったと思われますきんね。
山田堰のネキに、春野神社というお宮さんが鎮座まします。文化3年(1806年)に、伊野の八田にある春野神社の分霊を祀ったという春野神社は、兼山さんの想いが強かった山田堰を見下ろす場所に建てられました。で、その神社には、兼山さんの功績を讃える碑とともに、明治から大正にかけて山田堰土功組合の組合長をつとめ、特に大正4年の大洪水の後の抜本的改修工事を推進したという松木菊馬さんの、吉田茂揮毫による顕彰碑も建てられちょります。

この対岸は神母ノ木。いげのき。神母神社が鎮座。
どうやら、そこが神母ノ木と呼ばれだしたのは江戸時代になってから。と、言うことは。
たぶん、山田堰が完成してからのことと類推します。それまでは、洪水に弱い川縁の不毛の土地であったかも知れない神母ノ木。山田堰が完成し、その堰を利用して渡しが往来るすようになると、一気に交通の要衝となったと思われます。
物部川を流してきた上流の木材は、山田堰で集積されておったので、筏師の拠点にもなったとか。山田堰によって栄えた河岸に神母神社が祀られ、神母ノ木と呼ばれるようになったのでしょうか。いや、神母神社の由来は知りませんので、間違うちゅうかも知れませんが。
しかし、神母ノ木の繁栄は、山田堰に負うところが大きかったのは間違いない。

写真。
昭和47年に、800m上流に新しい堰が作られ、役目を終えた山田堰は、今、一部がこのように残されちょります。川を斜めに、湾曲して構築された様子がよくわかりますね。
この堰を向こうに延ばして行った対岸の森が、神母神社。そして神母ノ木。とっと向こうに工科大学。

堰の右手の緑地は、かつては堰の下の河原であったことでしょう。その広い緑地には、今、楕円形にランニングコースができちょります。まだ5時台というのに、女子高生らしき選手が走っておりました。たぶん、山田高校陸上部の朝練でございましょうね。山田高校の強さの源の一つは、ここにあったのか。なるほど。


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