堀詰の風景〔4388〕2015/04/21
2015年4月21日(火)晴れ!
やっとこさ、晴れました。風がちくと強いですが、良いお天気。あまりに雨が続くので、農作物の生産にも影響が出ちょります。土壌が乾燥せんので、生姜の植え付けができんで困っちゅう、という話も聞きます。もう、雨はエイですね。
さて。
ここは今朝、夜明け前の高知市堀詰。ほりづめ。戦前、高知の繁華街の中心地でもあった堀詰。戦後、このように電車通りが拡幅されるまで、堀詰のところで電車道はクネクネしちょりました。この右手に延命軒、そして堀詰座。土電のビルがあって、その向こうに大山館。電車道は、大山館に突き当たるように左に折れ、使者屋橋のところで右へ。S字型に曲がっておった電車道。
戦前にここから写真を撮ったとすれば、左手に鳳館、そしてその向こうに中央食堂。そっから先は、電車通りのクネクネによって、見通せんかったと思われます。突き当たりに大山館。
現在のGoogleマップを見てもわかるのでありますが、電車通り、そして追手筋など、郭中の東西の道路は、東へ行くほど、少し北に寄っております。真っ直ぐ東西ではなく、西南西から東北東、という感じ。で、丁度この界隈、つまり、郭中と下町の境目界隈で、少し曲がり、今度は東へ行くほど南へ下がる。クネクネしちょっても、大きくみると、南へ下がる。
それが受け継がれちゅうので、この写真も、右へカーブしちゅうみたいに見える訳だ。
これは、山内氏が高知の城下町を建設したときから、そうなっちょります。理由は、たぶん地形。
高知市の中心部は、鏡川と江ノ口川の間に舌状に延びる洲でありました。当然、川と川の間の真ん中辺りが一番高いので、そこがメインストリート。追手筋。
鏡川は、道路と同じように少しだけ北に向かって流れ、この堀詰の南の辺りで少し右へ、つまり南へ振れて流れております。ので、洲の、一番高い部分も、南へ振れておったでしょうから、道も少し南へ振れるように作られた。そうに決まっちょります。そうやって、現在の高知市内の道路や区画が形成されていった、という訳ですな。
では。
それを地学的に考察してみましょう。ついてきてますか?
高知市中心部は、ご存知の通り沖積平野。ここ、1万年くらいの間に、山から運ばれてきた土砂の堆積によってできた平野。その沖積面の下に、洪積世に形成された、硬い地盤の洪積面があります。その、沖積層と洪積層の境目を地形図にしてみたものがあります。それを見ると、一目瞭然。
高知城の山は、こないだも書いたように、黒瀬川帯に属する古い古い古い古い地層の山。最終氷期の頃の風景を想像してみると、高知城の山は、愛宕山の方から南に伸びてきた尾根の先にあります。尾根の東西は、前浦戸湾から深く切れ込んできた谷。高知城の山から東に段丘が伸び、その段丘は、堀詰の北側界隈で東南東に折れて舌状に伸びております。その両側が谷。堀詰は、その段丘の南側に切れ込む谷筋にあるように見えます。
その、今よりマイナス20mの段丘から10m程低い段丘がその先に伸びて、現在の潮江新田の方へ。そして弘化台の西が段丘の先っぽ。
今の桟橋通の辺りはと申しますと、それよりずっと低い谷底。その谷を登っていくと、潮江橋から掘詰、少し左に折れて鷹匠町の方へと登っていきます。
こんなこと、文章で説明してもわかりませんよね。このホームページのPDFで、第7図をご覧になって頂ければ、小生が何を言わんとしておるのか、お解り頂けるかも知れません。
つまり。言いたいのはですね、今から2万年前にはですね、この左手は高知城の方から伸びてくる段丘が伸び、右手には前浦戸湾から切れ込んできた谷があった、ということ。そして、その地形が、藩政期の城下町づくりの区割りや道の方向を規定し、それが現在の、この右へ曲がって行く電車通りの風景を生み出しておる、ということなんですね。
ああ。地学。私はどこへゆくのだろう。