知寄ヶ渕の謎〔4389〕2015/04/22
2015年4月22日(水)晴れ!
良いお天気。久々の放射冷却で少し寒い朝になりましたが、日中は暑うなりそうです。高知の春。と言いますか、初夏。
ここは今朝、夜明け前の宝永町。電車通りの歩道橋の上から西の方角を撮影してみました。宝永町。
何度も書いてきたように、宝永南海地震津波の後、城下町保護のために構築された新しい堤が宝永堤と呼ばれ、それに由来する町名。
宝永堤ができる以前にも、堤はありました。しかし地震で破壊されてしもうたがでしょうね。最初に堤が構築されたのは寛永2年(1625年)と言われます。下知村に堤を築いて、その内側、つまり西側を農地とした訳だ。藩主や武家、城下町内に住む人々の食料確保の為でしょうか。
城下町建設前は、今のはりまや橋の西、京町辺りまで畑や野原であったと言います。京町は、戦国期、今の堺町に本拠を置く国沢氏の領地でしたが、当時は野原であった、と言いますきんね。
写真右手の、もうちょっと向こうの方が新町。寛永8年(1631年)に春野、芳原の島崎藤右衛門さんという人が訪れ、5年かかって開発したニュータウン、新町。それまで潮田でした。
宝永4年(1707年)の宝永南海地震の後に築かれた宝永堤と、それ以前の堤の位置は、少し違うちょります。それ以前の堤は、以前にもご紹介した畝丘樹下(おいげこのもと)神社さん界隈にあったにかありません。その界隈のホノギ名が「堤倒し」なので。
宝永地震津波で破壊された堤があった場所に、塩田村にあった畝丘樹下神社さんが遷座され、豊穣が祈られるようになった、ということになります。
さて。
その新町東部に、元禄11年(1698年)の大火の後、城下のお寺さんが集められてきて「寺町」ができたそうです。この時集められたお寺さんの数は、なんと19。江ノ口川沿いの鉄砲町の南側。そこに19ものお寺さんが集まって建っておった訳だ。今からは想像もできませんな。
そしてやはりここでも宝永南海地震。宝永南海地震で、北側の江ノ口川の堤防が決壊して長期浸水となり、寺町は水没。で、ここに在ってはイカん、ということで小高坂村などへ移っていき、小高坂村に「新寺町」ができた、ということ。なるほどね。
この左手と農人町の間には、藩政期以前、深い深い渕があった、という話は何度も書きました。宝永南海地震翌年に成立した軍記物「土佐物語」に「知寄などいふ底もなき渕なれば、たやすく埋草も及ぶ所にあらず・・」と書かれた程の渕。
で、ここで地学だ。へへ。
昨日のにっこりでご紹介した「高知平野の地形と沖積層」という文献PDFの第7図。これを見ると、そこに深い渕があったのは、元々の洪積地形の影響を受けちゅうのではないか、ということが妄想できますよね。潮江の丘と下知の丘の間の深い深い谷。
1万年かかって沖積平野が形成されても、埋没谷は、元来の地形の影響を受けて周囲より低くなり、「いふ底もなき渕」となっていったのではないか。
マイ地学ブームで、妄想の暴走幅が広がりを見せ始めた、今日この頃です。