帯屋町遺跡、わかってきた中世の大高坂山界隈〔4358〕2015/03/22
2015年3月22日(日)良いお天気
春爛漫。といった感じのお天気ですが、桜はまだ咲きません。
今朝は田野へ墓参。お昼には高知へモンて来ました。で、行っちょったのは、もちろんここ。帯屋町遺跡。昨日の高知新聞にもご紹介されちょった、お城のネキの、中世から近世の遺構。
ここには、森連ビルというのが建っちょりました。それが取り壊され、新たに市町村の事務組合の庁舎が建つ、ということで、それに際し、高知市教育委員会による埋蔵文化財の調査が行われゆうのであります。今日は、その現地説明会。
この近くでは、くみあい興産駐車場跡地の歴史館建設現場の遺跡、そして、追手前小学校跡地の新図書館建設現場の遺跡の発掘調査に続く、公共施設建築に際しての本格的発掘調査となりました。
くみあい興産跡地発掘では、江戸時代の遺構はもちろんのこと、中世、14世紀頃と思しき水路などの遺構が出てきて、話題となりました。高知の中心部は、平安期は海。中世の頃に徐々に海退と灌漑が進み、人々が住むようになったとされますが、その証拠として初めて見つかったのが、その遺構。14世紀と言えば、南北朝動乱機。土佐でも、南朝方と北朝方が対峙して、激烈な戦いを繰り広げました。その、南朝方の有力武将が、現在の高知城の山、大高坂山に本拠を置いた大高坂氏。
その時代。
当時の地形を妄想してみましょう。
古浦戸湾が広がる古代土佐の中心部。比島や葛島、洞ヶ島などが島であった時代。そこから徐々に海退が進みます。大高坂山は、江ノ口川と鏡川の間の中洲のような場所にそびえる山。徐々に土砂が堆積し、その中洲は、大高坂山から東へ、舌状に洲を延ばしていって陸地を形成するようになりました。
そんな時代。大高坂山に本拠を置いた大高坂氏は、山裾にできてきた陸地を灌漑し、埋め立て、整地して、土地を広げていったでしょうか。
くみあい興産跡地に出土した中世遺跡は、まさしく、そんな妄想を証明してくれるものでした。追手前小学校跡地の遺跡では、中世の頃は、丁度その界隈が浦戸湾に突き出た中洲の縁限で、その東側はまだ湿地帯であったことを示してくれました。
そして、今回の帯屋町遺跡発掘でわかったのは、くみあい興産跡地界隈に中世つくられた街は、大高坂山の南側まで広がっちょったこと。中世、この界隈は、想像されちょった以上に都市化されちょったのではないか。
高知市教育委員会の方の説明では、この南側は、浦戸湾に流れ込む川の岸がしゅっとあったのではないか、とのこと。大高坂山を中心に、その裾の川縁の平らかな場所につくられていった都市。ああ。想像するだけでも楽しい世界。
県庁前の、発掘現場。
写真の長方形。南側の深く掘られた部分は、ここに広大なお屋敷を構えた深尾家(南宗家)が構築した藩政期初期の溝。ここから南がお屋敷。この真ん中辺りが東の隣家、五藤家との境目ではないか、とのこと。そして。
北側の、平らな部分。これが中世の遺構。小さい穴が、掘立柱の穴。大きな穴が井戸らしき遺構。14世紀は、ここに建物が立っておった訳だ。ここに、最初に形成された町。
この現地説明会には、高知県立歴史民族資料館の前館長、T先生も来られておりました。その先生の話では、当局は、ここには重要なものも無いだろう、ということで発掘調査をせず、そのまま建築工事に入るようにしちょったそうです。そんなことをしちゃあイカン!と、関係各位が一生懸命当局を説得し、この発掘に至ったそうです。いや〜、良かった。高知の平野、街が、どうやって成り立ってきたのかがわかる、貴重にして重要な遺構が発掘調査できて良かった良かった。
中世の遺構、土器、江戸時代の食器類、動物の骨、下駄、遊び道具などなど。なかなか素晴らしい。
あと、明治時代の、「泥面子」というおはじき玉みたいなのが出土しちょります。コイン状の玉には、人の苗字。板垣、といのが一番大きく、他にもたくさんの苗字。これで弾き合って遊ぶゲームがあったがでしょう。
その中に「相原」という泥面子。板垣退助が岐阜で過激派に襲われますが、その犯人が相原。明治期の庶民が、特に高知の庶民が、この事件に大変な関心を持っておったことがわかる、貴重な貴重な遺品。
いや。良い発掘現場でした。これからも、市役所の建て替えなど、市内中心部の大型公共施設工事がありますので、実に楽しみ。文化行政に携わる皆さんの、高い識見が望まれます。本当に、望まれます。