藩政期初期、出羽養子事件〔4359〕2015/03/23
2015年3月23日(月)快晴!
良いお天気の月曜日。一週間の始まりが良いお天気だと、実に気分がよろしいですね〜。
さて。
昨日、高知城の南側の帯屋町遺跡についてご紹介しました。あの発掘場所が、藩政期、深尾氏の広大なお屋敷であった訳です。出土した食器や下駄などに、藩政期初期のものがたくさんあった、ということなので、藩政期初期頃の絵図を見てみます。昨日、説明資料の表紙にも使われちょった絵図、寛文9年(1669年)に描かれたとされる高知城下図。
わかりますよね。上が高知城。その下、南門を出たところに、南北に広い道。道の左手に「山内織部」と見えます。これは、こないだご紹介した壱岐殿、酒井山内家の山内壱岐吉佐の孫、山内織部豊重。つまり、父は下総豊吉。壱岐殿の妻は二代藩主山内忠義公の妹、郷姫なので、下総豊吉は、藩主の甥、ということになります。
その山内織部さんちの、通りを挟んで東側。「深尾帯刀」と見えます。昨日の発掘現場は、まさしく帯刀さんち。帯刀さんちの南隣は、反対から文字を書いちゅうので読みづらいですが「深尾因幡」。土佐藩筆頭家老、深尾家の宗家、佐川深尾家の、高知城下のお屋敷。そちらが本宗家。
では、帯刀さんは、と申しますと、南宗家と言われる分家なのですが、家老職高知深尾家として絶大なる権力を持ちつづけた名家。
ここには、少しイザコザがあったのであります。いわゆる「出羽養子事件」。藩政期初期の土佐藩を揺るがせた、ちょっとしたお家騒動。
深尾家は、そもそも、山内家の客分。初代深尾和泉は、一豊入国に伴い、佐川一万石を与えられて筆頭家老となりました。普請御用御免とか、様々な特権を与えられた、特別扱いの家格。
で、一豊の命により、いとこの子を養子にし、深尾主水として後継にしちょりました。
ところが。
一豊さんの弟の康豊さんが、自分の息子、山内吉六くんを、和泉の養子にして跡を継がせよ、と命令しました。康豊の子、ということは、二代藩主忠義公の弟。絶大な権力を持つ深尾家を、山内家内部に取り込みたかった訳だ。
それが面白くない深尾和泉。一豊さんとの特権的約束も色々とないがしろにされて、それも面白くない。と、言う訳で、さっさと土佐を出て泉州堺に建てていた屋敷に入り、隠居願い。これはもう、忠義さんに対する当てつけ以外のなにものでもない。
困ったのは忠義さん。
で、色んな実力者に仲裁を頼み、深尾家への増石やら、最初の養子、深尾主水に新しい知行を与えるなどの懐柔策を提示して、なんとか和泉さんに土佐へ帰ってもろうたということ。
この後も、まあ、色々とごたごたあるのですが、藩主の方が深尾家に折れる形で概ね決着。
忠義さんの弟、深尾本宗家を継いだ深尾吉六くんは、深尾出羽重昌を名乗ったので、「出羽養子事件」と呼ばれる訳ですな。
その、深尾出羽重昌の息子が、因幡重照。この絵図の、深尾帯刀の南隣の家。帯刀さんは、新たに知行を得た深尾主水重忠の後継。で、家老職高知深尾家が、幕末まで続きます。
ちなみに、毎年正月11日に行われた「御馭初(おのりぞめ)」は、今のグランド通りのところから武士達が一騎駆けするのを藩主が検分する行事ですが、それは、南側の深尾本宗家の物見櫓からであった、ということになります。
ああややこしい。ややこしいついでにもう一つ。
大通りの左側の山内織部豊重さん。野中兼山失脚のきっかけを作った、山内下総豊吉の息子ですが、下総豊吉は、忠義公の甥。で、奥さんが、深尾出羽重昌さんの娘なんですね〜。出羽重昌さんは、上にも書いたように、忠義公の弟。
え〜と。
忠義公の弟の娘が、忠義公の妹の息子に嫁いだ、ということになりますか。そうですよね。忠義公を伯父とする従兄弟なんですが、酒井山内家と深尾家の婚姻。ああ。なんだかもう。ついて来れよりますか?
藩政期初期。山内家は、有力家臣の家と複雑に婚姻関係を結びながら、政権基盤を確立して行きよった、そんな構図が見えてくるではありませんか。かなりややこしいですが。