繁藤、四手藤、しでとう〔4308〕2015/01/31
2015年1月31日(土)晴れ
昨日は、あれから天坪の農協で生産者さんとの打ち合わせ会をしました。終了後、午後の、和田の集会所での打ち合わせまで、ちくと時間があったので、パセリとか大葉とかをつくってくれゆう農家さんの所まで行っちょりました。場所は、立川地区。
立川は、だぢかわと読み、藩政期には参勤交代ルートにもなった、四国山地主脈の山裾の集落。大杉から愛媛の馬立、新宮へ抜ける県道5号線沿い。
しかし、野菜をつくってくれゆうのは、その県道5号線から枝道へ入り、谷筋の道をどんどんどんどん上がっていった所にあります。
人類は、すごいと思いました。何故、こんな山の奥の奥の奥に住み着いて、畑を開き、生活していく必要があったのか。昨日も書きましたように、平家の落人のような、街に住めなくなった人々が移住してきたのか。他に理由があったのか。
確かに、水の便は良さそうな谷でした。それにしても、だ。
こないだ聞いた話では、吉野川を挟んで北側と南側で、地質が違うそうです。南側は、こないだの怒田、八畝のように、棚田にして水稲をつくりゆう場合が多く、北側は畑にして、畑作と養蚕がメインになっちょった、と言います。また、木地師や炭焼き、杣など、山での暮らしを立てていきよった人々も、そんな山奥に住んだでしょうか。
しかし、そんな奥の、冬には雪で埋まってしまうような、しかし水には恵まれちゅう谷で、青汁「菜食健美」用の様々な野菜をつくって貰える訳で、この現況には感謝するしかありません。
今朝は、昨日の角茂谷から一つ高知よりの駅、繁藤駅まで行って、撮影してきました。今朝は粉雪が舞いよりました。奥は雪でしょうき、昨日でなくて良かったです。ノーマルタイヤの2駆で、雪が積もった和田の集会所まで行くのは不可能ですきんね。
繁藤。
この駅の線路スペースは実に広い。渓谷を走る土讃線のルートの中で、珍しく広い土地が利用できる駅。かつて、穴内などで採掘されたマンガン鉱が、この駅まで鉄道で運ばれていた歴史もあります。石原満俺軌道という鉄道が、今は穴内ダムに沈んじゅう黒滝鉱山というマンガン鉱山から、採掘されたマンガンを積んで、この繁藤駅(天坪駅)に乗り入れちょった訳です。満俺と書いてマンガン。
繁藤。元々は四手藤、肆手任、四手任などと書かれ、しでとう、でした。甫喜山郷の一村として、四手藤村がありました。明治になってから、繁藤になったそうです。なるほど。
四手藤村も、田は少なく、昔から林業、焼畑による粟、稗、蕎麦の栽培などが行われておったと言います。田んぼに適した地質、地形ではなかったがでしょうか。
この繁藤の山には、飼古屋遺跡という、縄文から弥生時代にかけての複合遺跡があります。吉野川沿いには、縄文時代の遺跡が点在し、少ないながらも吉野川に沿って人が暮らしていた痕跡があります。
昭和57年。高知自動車道の建設が始まるのに際し、発掘調査が行われました。その調査報告書がネットにありましたが、面白いですね。
高知県教育委員会と日本道路公団が作成した報告書ですが、その巻頭の例言のところに「調査は日本道路公団大阪建設局の要請を受け、高知県教育委員会文化振興課が実施、顧問岡本建児(高知女子大学教授)の指導のもとに森田尚宏(主事)が担当した。事務、総括は横田勇(文化班長)宅間一之(社会教育主事)があたった。」とあります。
おう。宅間先生が社会教育主事ではないか。
教師を長くつとめられ、中世の城郭を専門とする歴史家、宅間先生。高知県立歴史民族資料館の館長をつとめられたのは、記憶に新しいところ。現在、土佐史談会の会長もつとめて頂いている、土佐の歴史界の重鎮。すばらしいお人柄で、色々と教えを賜っておりますが、宅間先生も、若いころ、こんな仕事もされちゅうがですね。
この報告書のⅠは、宅間先生が執筆されちゅうがやそうです。これはキチンと読んでみねば。
繁藤の話から、宅間先生に行き着いてしまいました。