角茂谷、天坪、雨坪、日本の将来〔4307〕2015/01/30
2015年1月30日(金)雨
今日も、大豊。今日も、弊社青汁「菜食健美」の野菜生産者さんたちとの打ち合わせ会。午前中は天坪の農協で、午後は和田の集会所で。
今日は四国の山間部は大雪かも、みたいな予報やったので、ドキドキしよりましたが、今のところ雨。冷たい雨が降る、大豊町南部、天坪。あまつぼ。
江戸時代には雨坪名。その名からも判る通り、こじゃんと雨がエラいエリアで、繁藤の土砂災害は、高知県人にとって忘れることはできません。
写真は、角茂谷(かくもだに)駅近くの道路から国道方面を撮影したもの。角茂谷と言えば、この赤いトラス橋が印象的な集落。この橋。昭和5年9月に架けられたたという美しい橋で、その名も平和橋。満州事変の前年で、平和への思いが込められた名称。平和橋。
この界隈、旧土佐山田町、現香美市と、長岡郡大豊町が交錯して分かりづらいですよね。角茂谷という地名も、香美市角茂谷と大豊町角茂谷があるくらい、ややこしい。整理しましょう。
ここは昔から、雨坪という名(みょう)。名内には十手野、馬瀬、楠木、北川、川平、トチノ瀬、竹屋敷、上川平、峰、という小村がありました。その内の、峰などが合併し、江戸時代初期に角茂谷村が成立。
で、明治になって明治22年。町村制施行に伴い、角茂谷村などいくつかの村が集まって天坪村となりました。
時代は下って昭和。昭和30年、天坪村、大杉村、西豊永村、東豊永村が合併して大豊村になります。そして。ここからがややこしいのですが、大豊村のうち、穴内、樫ノ谷、北滝本、繁藤と、角茂谷の一部を香美郡土佐山田町に編入、とあります。穴内や北滝本などは、上の、元々の雨坪名には入っちょりませんので、天坪村と雨坪名のエリアはだいぶ違うことがわかりますね。
さて。旧天坪村は、ここで香美郡と長岡郡に分断された訳だ。長岡郡から香美郡に取られた、みたいな形。中でも旧角茂谷村は、小村にもかかわらず村内で分断。なんで、現在では、香美市角茂谷と大豊町角茂谷が存在する、ということになっちょります。
ああ、ややこしい。おわかり頂けましたでしょうか。
天坪、と聞いて香美市繁藤界隈を連想するのも正しいですし、大豊町角茂谷を連想するのも正しい。少し整理できましたでしょうか。
昨日、怒田での打ち合わせの後、生産者のおばあちゃんから「ひまわりさんのお陰で、こじゃんと助かっちょります」とお礼を言われました。こんなに嬉しいことはないですね。山の暮らしに役立つこと。これ以上の幸せはございません。この仕組みをつくって青汁「菜食健美」をやりよって、ホントに良かったと思うた瞬間です。
怒田は、高知大学が、地域協働の実践の場として、実際に入り込んで活動している地区。去年は、なんと、そんな若者が結婚して移住してきたそうです。期待してしまうではありませんか。
大豊町で、昨年生まれた赤ちゃんは15人。村全体で、たった15人。しかし。
そのうち、移住者の方の赤ちゃんが8名やそうです。半分以上。
ここに、日本の中山間が再び元気になるための答えがありました。我々の仕事は、移住して来たい人々が、移住先で飯を食べていけるようお手伝いすること。そんな仕組みを、日本で最初に「限界集落」という単語が使われた大豊町が、先頭になって創っていけるのではないか。期待してしまうではありませんか。
「工夫し、知恵を使って成果を上げるところにはお金を出す」も結構で、大切なこと。スペシャルをつくる。もう一つ大切なことは、どこでも応用可能な仕組みを構築し、全国にスタンダードとして広がっていくこと。スタンダード。
日本の将来は、ここにありました。