波川玄蕃城、藪漕ぎ、蘇鶴温泉〔4302〕2015/01/25
2015年1月25日(日)良いお天気
明日から天気は崩れるとの予報ですが、今日は良いお天気。冬の、良い日曜日。ひねもすのたり感が、高知の平野に横溢しちょります。
今朝は、会社へ行ったあと、高知市内へ帰ってきて、ちょっと多めのラン。23km。16kmを過ぎてから、標高171mとは言え、山の道路を駆け上がってきましたので、結構こたやかされました。でも、クルシココチ良かったです。
今朝は、電車通りで、龍馬マラソンのリハーサルをやろうとしゆうところに行き当たりました。各信号機のところにお巡りさんが立っちょります。信号をうまく止めれるか、練習しちょくがでしょうか。そして、今日もあちこちにランナーの姿。エイですね〜、街のあちこちをカラフルなランナーが走る風景。今日は、小生、あの、ランナーがよく履いちゅう黒いタイツみたいなのを履いて、走りました。ので、ランナーみたいに見えたでしょうか。それとも力道山みたいに見えたでしょうか。
市内から鏡川沿いに出て、鏡川橋を渡り、伊野へ。途中、「八代の舞台」で有名な八幡様の所に消防車が停まり、消防隊員がホースを抱えて走っております。火事か?と思うて尋ねてみたら、今日は「文化財防火デー」ということで、訓練でございました。ご苦労様です。貴重な貴重な農村歌舞伎の回り舞台が残る八幡様ですき、守ってくださいね。
で、枝川から伊野の街を抜け、鉄橋を渡って波川。農業大学校の方へと曲がっていくと、玄蕃城への登り口。狭いながらも車道が頂上すぐ下まで通っちょります。ここまでで16km走っちゅうので、駆け上がる足取りはいかにも重い。重いながらも、なんとか止まらずに、ここ、標高171mの玄蕃城址の詰の段まで到着。絶景。
玄蕃城。
波川玄蕃は、戦国期にこの界隈を支配した武将。長宗我部元親の妹婿となって、威を振るいますが、謀反の疑いを元親にかけられてしまいます。この辺、真相は今もって闇の中。様々な情勢の中で、追い詰められていった玄蕃が、謀反を考えちょったのかも知れません。
天正8年(1580年)、捕らえられた玄蕃は阿波で詰め腹を切らされたと言います。残された妻、つまり元親の妹は出家して「養甫尼」を名乗り、この向こう、仁淀川対岸の山の上、成山で暮らし、土佐七色紙の元祖となったとされるのは、有名な話。
写真は、玄蕃城の詰の段から撮影。てっぺん。この、20m四方くらいの場所に、四界が見渡せる砦を築いておったでしょう。周囲に、高さ1mちょっとの土塁。これは、当時築かれた土塁。この写真は、その土塁の上に立って、伊野市街、高知市街方面を撮影したもの。眺望絶佳。
手前が仁淀川。その向こうに伊野市街。その右上、山の向こう遙かに高知の市街地も見えます。今日はあそこから走ってきた訳だ。
どれがそうかわかりませんが、岡豊の山も見えるのではないでしょうか。謀反の疑いをかけられた波川玄蕃、ここから元親の住む岡豊の山を見ながら、何を考えたでしょうか。忸怩たる思いであったでしょうか。
しばし、玄蕃になったつもりで、詰の段の土塁から東を見ておりました。
ここから、波川駅の南の月田上神社のところまで、山道が整備されちゅう、という案内板があります。しかし。
以前、1度は月田上神社から、1度はこの玄蕃城から、踏破してみろうとたつくってもましたが、今は誰も通らんらしく、尾根は藪。鬱蒼とした藪。森の中ですと、こんなに藪の密度が無いので歩けますが、尾根の上は日当たりも良いので、とにかく鬱蒼。誰も歩けません。今日はその鬱蒼藪を踏破しよう、と心に決めて、前に立ちはだかる、一歩進むにも時間がかかるような藪を突き進んでみました。
すると。
何と、車道に出たではないか。そんな筈はない。
iPhoneで現在地を確かめてみたら、月田上神社の方へ行く尾根から外れ、ひと尾根越えて、隣の谷の道路に出てしもうたにかありません。
仕方ない。
その道路は、目的地である蘇鶴温泉のある谷につながっちゅうようなので、それを走って下って行きました。なので、期待しちょった藪漕ぎは、ちょっとだけ。
まあ、蘇鶴温泉のお湯が心地良かったので、よしとしましょう。蘇鶴温泉、最高です。