陸軍歩兵第四十四連隊将校集会所前の池〔4303〕2015/01/26
2015年1月26日(月)小雨模様
今朝は、会合があって、高知大学へ来ちょります。本部なので朝倉キャンパス。朝倉キャンパスには、人文学部、教育学部、理学部がありまして、この春から地域協働学部が開設されます。農学部は空港の隣、医学部は岡豊にあるのはご承知の通り。
高知大学。旧制高知高校と、高知師範学校、高知青年師範学校が統合して、昭和24年に、新制国立大学として発足しちょります。今は国立大学法人高知大学。
この朝倉キャンパスに、最初にできたのは教育学部。高知師範学校は、男子部が今の城西中学校、盲学校のところに、女子部が今の潮江中学校のところにありました。が、昭和20年7月4日の高知大空襲で焼失。焼け残りの講堂や、近所の建物などを利用して授業が再開されたのが、戦後すぐの昭和20年9月。教育は国家の根幹、ということながでしょう。何がなくとも、師範学校再開、という空気が読み取れます。
で、昭和22年11月に、進駐軍から引き渡された朝倉の陸軍兵舎跡へ移転。そこで授業を開始したのでありますね。なので、この朝倉キャンパスが利用され始めたのは、昭和22年ということになります。では、旧制高知高校の方はどうなったか。
旧制高知高校は、今の付属中学校のところにありました。
やはり昭和20年7月4日の高知大空襲で、ほとんどの施設を焼失。同じく終戦直後の9月、焼け残った建物などで授業再開。で、昭和24年に、新制高知大学の文理学部となりました。場所は、そのまんま。今の付属中学校のところ。
で、昭和35年、ここ、朝倉キャンパスへと移転してきました。昭和52年に、人文学部と理学部に分かれ、今に至る、という訳だ。なるほど。
ご承知の通り、朝倉キャンパスは、陸軍歩兵第四十四連隊の跡地。終戦までは、ここに、「おらが部隊」、四十四連隊がありました。南側に広大な練兵場。
この池。連隊があった当時からあったにかありません。往時の配置図を見てみましょう。
この場所に池があり、その北側に将校集会所。将校集会所は、池に面しちょりました。右手の建物の場所。池の西側が連隊本部。今も、大学本部があります。連隊時代の機能をそのまんま受け継いじゅうみたいにも見えます。
池の南東には「建依神社」と見えます。池は、神社の池であったとも考えられるようですね。古事記の最初に出てくる、土佐の神様、建依別神を祀り、軍人精神を高揚させよったがでしょうか。
連隊本部の西側には築山。現在、高知大学朝倉キャンパスの正門を入ると、守衛さんの居る場所が、植え込みみたいになっちょります。たぶんあれ。四十四連隊の痕跡。
池と築山。連隊時代の痕跡を、今も毎日眺めている、ということを、学生さんはどれっぱあご存知でしょうかね。
ちなみに、正門前から西側に回り込んだ、国立病院へ行く道路脇に、弾薬庫が残っちょります。そのまんまの建物で。
高知大学に残る戦争痕跡の数々。