日本橋、人形町、元吉原、都市計画の思想〔4292〕2015/01/15
2015年1月15日(木)曇ってます
今朝は東京。
実は、昨日のあのにっこりひまわりは、東京へと向かう飛行機の中で書いたものです。お昼過ぎに東京へ着いて、埼玉県の内宿という所まで行っちょりました。お仕事。
順調に仕事を済ませて東京へモンて来たら、夜8時を過ぎちょりました。
埼玉県はなかなか奥深い。内宿へは、巨大になった大宮駅から新交通システムニュートラムというやつで行く訳ですが、荒川によって形成された沖積平野に広大な宅地と畑が広がっちゅう場所。
新幹線の用地買収に際し、その路線沿いに地元の人たちが利用できる交通システムを、ということで政策的につくられたにかありません。それができるまでは、恐らく広大な農地が拡がっちょったであろう、そんな土地でした。それでも、新交通システムもあって、都心部への完全な通勤圏内ですきんね。関東には、こんな場所が、広大無辺な土地が、いっぱいありますね〜。
朝5時起床、お約束、築地ランをやって参りました。大門から国道15号線、つまり旧東海道を走って日本橋へ。途中、銀座8丁目から銀座1丁目まで一気に駆け抜けますが、早朝の銀座は実に静か。これが新宿とかですと、まだ、夜の続きの若者なんぞも多いんでしょうが、そこは銀座。朝は朝の銀座のたたずまいを見せておりました。
日本橋を渡り、右へ折れてしばらく行けば人形町。今日は、人形町界隈をたつくりまわってから、築地へ下ってホルモン丼生卵入りを食べて来たのであります。8kmしか走ってないのに、あんなもの食べてしまいました。
日本橋界隈は、現在、再開発が進んで巨大な商業施設が林立しております。工事中の巨大ビルもどっさり。しかし人形町界隈まで行きますと、何となく江戸の風情を感じられますよね。古い建物、狭い路地、ゴチャゴチャと飲食街、古いが趣のある建物、などなど。
人形町という町名の由来は、江戸時代、人形遣いがたくさん住んじょったことによるものにかありません。人形芝居とか浄瑠璃とか歌舞伎とかの芝居小屋が多かったのも、この界隈。
その人形町の交差点から二筋進むと、大門通りという通りと交差します。右へ行けば甘酒横丁など、有名な、ゴチャゴチャした楽しい飲食街、そして水天宮。
左へ曲がると人形町3丁目、富沢町方面。どうやら、その界隈が元吉原やと思われます。ので、そこを撮影して来ました。夜明け前の元吉原、大門通り。
こないだ、新吉原の界隈をたつくって来ました。あそこは、明暦3年(1657年)の明暦の大火の後、幕府によって移転が認められ、新たにできた公認の遊郭。吉原田んぼというくらいで、浅草の北側の何もない土地を造成して、つくられました。
ここ、人形町界隈に最初に遊郭をつくった功労者は庄司甚右衛門さん。徳川家に、この場所での遊郭建設を認められ、吉原遊郭の父と言われた人物。
隆慶一郎さんの小説では、傀儡の一族として、実に重要な役割を演じちゅう庄司甚右衛門さん。この写真の風景には、庄司甚右衛門さんが最初につくった吉原の街の面影を見ることはできません。
ここは低湿地帯であったと言います。そこを埋め立て、造成してできた土地。
今朝、周辺をたつくってみましたが、確かに周囲より一段高くなっておるような気がします。新吉原もそうですね。低い土地に盛り土をして造成し、遊郭をつくる。遊郭の周囲は、水路で取り囲む。そんな都市計画思想があったものと想像できますな。
現在の人形町の繁華街は、ここから南東へ行った方角にあります。明治になって水天宮がそっちの方に移設してきたので、そっちに繁華街が形成されていった、と言います。
江戸時代は、こちらの方が芝居小屋などがあって栄えちょりました。
江戸時代初期、急速に都市化する江戸の街にあって、その繁華の真ん中にあった吉原。元々は人が住みづらい低湿地帯であったのが、繁華の中心になってきた訳です。日本橋のネキですきんね。で、これではね、ちょっとね、ということになり、郊外へ移転する計画ができました。廃止する計画にせんかったところが、さすが、政治と都市計画がわかっちょった徳川幕府、と言えましょう。
移転計画が進んでいた最中に、明暦の大火が発生。
それを機会として、江戸の街は、機能的で有機的な近世巨大都市へと成長していくのであります。その際の都市計画の思想は、実に見事と言うほか無い。吉原移転も含め、徳川幕府の都市計画に対する思想は、実にすごいものがありました。
やはり都市計画は思想です。