追手筋、街路樹、ここに防空壕があった証言〔4291〕2015/01/14
2015年1月14日(水)曇っちょります
昨夜は、高知街地区町内会連合会の総会でした。高知のお街の中心部の町内会長さんや商店街の会長さん達が集まって、総会と宴会。
そこに出席されちょった、本町4丁目の町内会長の池田さん。昭和20年に高知市立第三国民学校、後の追手前小学校を卒業された、という、生粋の街中っ子、池田先輩。
もう、すごい話をいっぱい聞けました。特に、戦前の話は、初めて聞くような話がてんこ盛りでして、録音しちょったら良かった、と、出席した皆が言うておりました。
その中でも興味深かったのが、追手筋の防空壕の話。いや、ホント、初めて聞きました。
ここは追手筋の西端界隈。向こうに高知城の天守閣が見えゆうががわかりますでしょうか。左に刃物屋さんが並びます。
この街路樹。大きいクスノキ。巨大な楠。あまり、キチンと見たことありませんでした、迂闊にも。追手筋の街路樹は、ここから土佐女子、ひろめの前までがクスノキの巨木。追手前高校、旧追手前小学校の前が、そんなに大きゅうないクスノキながですね。で、そっから東はカナリーヤシ、という、南国情緒溢れる街路樹。
いや、今の今まで、そんなの、気を付けて見たことなかったですきんね。
さて。
池田さんの話では、戦争末期の空襲の際、クスノキとクスノキの間に掘られた防空壕へ逃げ込んだ、ということ。クスノキを囲うた部分と、囲うた部分の間。何ヶ所か、クスノキを囲うちょって、その間の地面に防空壕が掘られちょったと言います。
斜めに、子供の背の高さくらいの穴を掘り下げちょりました。下って行くと、そこには10人ちょっとくらいが入れるスペース。地盤が低いので、底には水が溜まっちょったと言います。今も、その時のクスノキはそのままで、風景は変わっちょらんので、その場所を掘ったら防空壕の跡が出てくると思う、とのこと。靴やら焼けた衣服が出てくるがやないろうかと。
え〜〜〜!
追手筋の、今の広さの道路は、戦後、焼け野原からの復興でできたもんとばっかり思いよりました。確かに、追手前高校と旧追手前小学校の間、つまり城東中学校と第三国民学校の間の道は10m幅くらいやったそうです。それがずうっと東へ延びておりました。
しかし、土佐女子とひろめ屋敷の間から追手門までは、真ん中に街路樹が植えられた広いスペースになっちょったとのこと。今と同じように。
そこで、今朝、昭和初期の高知城天守閣から撮影した追手筋を見てみますと、そう、その通り!
まだ小さい、植えられたばっかしのクスノキが、今と同じように街路樹になっちょりました。そして、何と、そのクスノキを囲む植え込みは、まったく今と同じ形状。
確認の為、今朝、高知城の天守閣に登って、昭和初期の写真と同じアングルで撮影してみましたが、間違いありません。
つまり、この写真の植え込み部分は、昭和初期から同じ形状をしちゅう、ということが判明したのでありますね。
追手門からひろめ前まで、楕円形の植え込みは3つ。昭和初期でも3つ。今も3つ。
植え込みと植え込みの間は2つ。両端を入れると4つ。そこに、防空壕が掘られちょったのでしょうか。池田さんの証言によれば、そういうことになります。
まさしく、この写真の、植え込みと植え込みの間。ここに、斜めに降りていく穴が掘られ、その下は防空壕になっちょった、という歴史。
高知城の山の周囲に、たくさんの防空壕が掘られたことは知っちょりました。今も幾ヶ所か痕跡が残るので、ご紹介したこともあります。
しかし、こんな、山でもない地面にそのまま掘られた防空壕があったとは。迂闊にも、考えたこともありませんでした。
池田さんの話では、空襲が激しゅうなると、火が入ってくるので、やっぱし危険。なので、ここへ逃げ込んだ後、また、お城の北の方へ逃げ直した、ということもあったそうです。
何という歴史。知らなかった歴史。
第三国民学校も焼けてしまい、戦後、城東中学校との間の道は西側の道と同じ幅に拡張され、西側の街路樹と同じように街路樹が植えられて、現在の姿になった訳だ。なので、戦後植えられたそこのクスノキは小さい。風景をよう見ちょったら、もっと早うに気付いちょったかも知れない事実。ああ。
この、池田さんのような語り部、歴史の証人が、どんどんと居なくなっている現在。こんな貴重な証言を、もっともっと聞いて記録しちょかんといけません。いや、ちょっと焦ってきました。
今日の、このにっこりひまわりは、貴重な貴重な証言の記録でもあります。