山を歩くひとびと〔4236〕2014/11/20
2014年11月20日(木)晴れ
少し雲は多いですが、晴れちょります。昨日の夜、汽車で北九州からモンて来ました。
こないだ、池川にある種田山頭火さんの句碑をご紹介しましたが、山頭火さんが九州界隈を行乞しながら旅をした、その日記が、文庫本になっちょります。家の前や辻に立ってお経を唱え、銭や米の施しを受けながらそのお金、米で木賃に泊まり、生活をしつつ移動していく行乞。ぎょうこつ。
その日記には、同宿になった、様々な人物の様子も描かれちょります。薬売り、旅芸人、そしていわゆる「世間師」と呼ばれるような人々。
それを見ると、実に色んな職業、身上の、大勢の人々が旅をしていたことがわかります。実にたくさんの、旅する人々。それは、主要街道だけではなく、山を越えてゆく様々な道も歩いておりました。
民俗学で、歩く巨人と呼ばれた宮本常一先生の著作が、最近、何冊か文庫本になりました。有名な「忘れられた日本人」は、昔から岩波で文庫になっちょりましたが、他にも幾冊か文庫化されたのは喜ばしいこと。昭和前期、日本中を歩きに歩いて土地の習俗や言い伝え、文献などを採集、纏めたお仕事は、他の追随を許しません。
で、改めて、文庫になった本を読み返してみました。
その本の中に、「忘れられた日本人」でも紹介されちょった寺川地区の話が、また、描かれちょります。現いの町の最北、旧本川村の長沢ダムの奥。四国山地の主脈の麓の谷に、寺川という集落があります。そこへ、愛媛県の西之谷から峠を越えて歩いてくる最中に、夕刻の薄暗い山中で出会った老婆の話。
その老婆は「レプラ患者」でした。今で言うところのハンセン病。以前は癩病と呼ばれ、差別の対象となっていました。伝染力が過大に評価され、近づくことが忌み嫌われた歴史を持ちます。今は、伝染力も非常に低いことが判り、治療法も確立されております。
集落に住むことが嫌われ、旅をするようになった方も多かったようです。ハンセン病の、もうひとつの差別的呼称にカッタイ病というのがありました。宮本常一さんが深山の山中で出会った老婆は、皮膚もボロボロの状態でしたが、徳島から山を歩いてきた、とのこと。当時(昭和初期)は、人々の往来は基本的に徒歩なので、山中の街道は色んな旅人が歩きます。しかし、ハンセン病の方々は、そういった道とは別の、ハンセン病の方々だけが通るという普通にはわからない道を通っていた、ということで、その道は「カッタイ道」と呼ばれ、その老婆もカッタイ道を歩いて四国山地を縦断してきた、ということでした。
かつては、カッタイ道だけで、四国八十八霊場を廻れた、とも言います。
通常の道を歩く場合も多かったのですが、土佐では、殿様がカッタイ病を嫌うたので、表の道は歩けんかった、という話も残ります。
砂の器。
松本清張さんの推理小説で、映画にもなりました。交響曲「瀬戸内」やったでしょうか。今もあのメロディは強烈に耳に残ります。映画の最終局面、差別されながら癩病患者の父と旅した少年が、その過去を隠して作曲家として大成し、作曲した交響曲を指揮する場面で流れる、かつての父との旅の風景。
昭和前期まで普通にあった、悲しい風景。
宮本常一さんの文章を読みながら、映画のその場面が思い出されました。
写真は今朝の物部川。土手の上から三宝連山、そして四国山地の山々を撮影してみました。その山には四国霊場大日寺もあります。
美しい山々を、様々な道を、様々な人々がそれぞれの思いを抱えて歩いていた時代。