鏡川の風景、冬の大三角形〔4157〕2014/09/02
2014年9月2日(火)晴れ
よく晴れました。まるで秋晴れのよう。涼しい風が吹き抜ける早朝の鏡川。川面に街の灯りが反射して美しい夜明け前。
それにしても涼しい夜でした。夏はやって来ることなく、もう秋なのでありましょうか。結局、今年の八月は、夜空を見上げることもなかったような気がします。星空をゆっくり見るようなことはありませんでした。気がついてみると、もう夜明け前の東の空は冬。冬の大三角形が見事に輝く季節になりました。シリウス、ベテルギウス、プロキオン。
ここは鏡川、潮江橋北詰の少し東。東の方角を撮影してみました。一番上、オリオン座が斜めになり、ベテルギウスが。中央少し左にプロキオン。そしてプロキオンから真っすぐ右を見ればシリウス。太陽以外の恒星としては一番明るいシリウスが、鏡川の上に、ひと際美しく輝く朝。
なかなか大変な夏でしたが、大自然は、なにごとも無かったように、静かに、着実に移ろうていきます。鈴虫の声が心地良い季節になりました。
正面に雑喉場橋。その向こうのアーチが水道橋で、その向こうが九反田橋、鏡川大橋と続きます。鏡川河口の汽水域。左側の土手が東唐人町で、その北側に弘岡町、朝倉町、浦戸町。
寛政四年(1792年)の絵図で、住んでいた人々の職業氏名を見てみましょう。
東唐人町。唐人町は、何度も書いてきたように、秀吉の朝鮮出兵で出陣した長宗我部元親が、朝鮮の秋月城主朴好仁以下一族郎党を連行してきたものが、藩政期になって、鏡川北岸に土地を与えられ、免税の特権を与えられて豆腐製造販売をするようになったことに由来する町。戦争の頃まで、鏡川北岸には豆腐屋さんが並んじょったと言います。寛政四年当時、豆腐屋さんが並んじょったのは、堀詰の南、グランドホテルさんがあった界隈から西で、柳原辺りまで。ここの土手の上にたくさんの豆腐屋さん。お店は、土手から南向いての店構え。豆腐を買いにきた人々は、河原の方から買い物をしたがにかありません。
以前にも書きましたが、これは、土手のメンテナンスという役割をも担い、その為に特権が付与されちょったのではないか、と妄想するところです。
では、堀詰南から東、つまりこの東唐人町の界隈はどうなっちょったのか。どうやら、土手の真下が川になっちゅうようで、土手から南向いて商売できるスペースはなかったがでしょう。誰も住んじょりません。
しかし、そのちょっと向こうくらいから魚屋さんが数軒、南向いての店を構えちょります。雑喉場橋のところには、もちろん橋もなく、渡しがありました。ここから水産物や物資の荷揚げをするために北に横堀が掘られ、鏡川への出口に雑喉場役所が。その西隣に2軒、雑喉場役幸助さんと雑喉場役彦太夫さんの家が並びます。今から220年ほど前の風景。
そして、大正時代。この静かな川面を利用して、土佐における近代水泳が始まりました。雑喉場橋南詰界隈から西にかけて。川に、刎ねのような土手を突き出し、50mの折り返し板も設置しての、言わばプール。もちろんどこにもプールなんぞ無かった時代。川や海があるのに、プールなんぞ、まったくもって必要としちょらんかったでしょう。
この風景の中にできた、高知で初めてのプールもどきで、旧制高校や旧制中学の学生さんが原書を解読しながら近代水泳の勉強を始めたのでありました。そのお兄さんに手ほどきを受けながらここで育ち、高知商業学校へ進んだ北村久寿雄少年。商業学校在学中の昭和7年、ロサンゼルスオリンピック1500m自由形で金メダルを獲得。14才と10ヶ月。
以前にも書きましたが、高知県からは、これ以来一人も、ただの一人も、オリンピックでの金メダル獲得選手を輩出しちょりません。
唯一の金メダルは、この美しい風景の中で生まれたのでありますね。
以前よりはキレイになってきた鏡川。大潮の干潮時には、シジミ獲りの親子で賑わう鏡川。
あの、冬の大三角形は、悠久の時間の流れの中で、そんな風景をずうっと見守ってきました。
川舟でニロギを釣り、シジミを獲り、河原でのんびりする家族連れ。そんな夢のような風景が目に浮かびます。