9月1日、日章小学校、関東大震災、寺田寅彦さん〔4156〕2014/09/01
2014年9月1日(月)曇り
9月1日。キレイに夏空が広がることもなく、夏休み終了。それでも、子供達は楽しい楽しい夏休みを過ごした事やと思います。宿題がキチンとできちゅう子供達には、今日は、久し振りにクラスの友達に会える、楽しみにしちょった日かも知れません。
会社から一番近い小学校が、ここ、南国市立日章小学校。
三島村、立田村、田村が合併して日章村ができたのは、昭和17年のこと。これは、その界隈の広大な土地が海軍によって接収され、基地と飛行場が建設されることになったことによる合併。
立田村に、漢学者にして教育者、北村澤吉さんが私財を投じて「日章園」を設立したのは昭和13年。私設の図書館にして教育施設。地域学習、地域交流の拠点になったと言います。中国の古い文書「中庸」にでてくる文章から「日章」と名付けた、とされ、その日章園の「日章」が、新しく統合された村の名称に採用された、と言います。昭和17年にできた「日章村」。
立田界隈には、たくさんの小学校がありましたが、統合されていって、昭和16年に立田国民学校ができました。で、昭和17年、立田村が日章村になったのに合わせ、日章国民学校と改称、戦後になって日章小学校となって、今に至る訳です。
日章小学校校歌の1番。
沃野香長の中心に 偉人の残した村の名は
希望も多き日章と 平和を誇る文化郷
偉人、北村澤吉さんのことが出てくる、大切な校歌。
今、この界隈に「日章村」の名前の痕跡を残すものは、ホントに無くなってしまいました。高知空港は、昔、日章の飛行場、と呼びよりましたし、土電安芸線には日章駅も。弊社の工場が昭和40年にできた際、正式名称は「南国工場」ですが、皆、「日章の工場」と呼びよりました。日章小学校は、そんな「日章村」の名前を残す貴重な存在。
ところで9月1日。昨日も書きましたが、91年前の大正12年9月1日お昼前、関東大震災が発生。
高知県人も、その大震災ではかなり被害を受けたり関わったりしちょります。中でも、地球物理学者、寺田寅彦さんは、震災直後から災害が広がるメカニズムを調査研究し、論文に纏め、現在の我々にも大変貴重な資料を残してくれちゅうのはご承知の通り。
寅彦さんの日記には、地震発生時の状況も、科学者の目で、実に冷静に記載されちゅうがが流石。
発生時、寅彦さんは、上野での二科会の展覧会の招待日ということで、美術館に居ました。一通り見学して、喫茶店で知人と絵画について話をしていた時に、地震発生。少し日記から引用してみましょう。以下引用。
前略
・・モデルの良人から撤回要求の問題の話を聞いているうちに急激な地震を感じた。多分その前に来た筈の弱い初期微動を気付かずに、直ちに主要動を感じたのだろうという気がして、それにしても妙に短周期の振動だと思っているうちに、いよいよ本当の主要動が急激に襲って来た。同時にこれは自分のまったく経験のない異常の大地震であると知った。その瞬間に子供の時から何度となく母上に聞かされていた、土佐の安政地震の話がありありと想出され、丁度船に乗ったようにゆたりゆたり揺れるという形容が適切であると感じた。仰向いて会場の建築の揺れ工合を注意して見ていると、四、五秒程と思われる長い周期で、みしみしと音を立てながら緩やかに揺れていた。それを見たとき、これならこの建物は大丈夫だということが直感されたので、恐ろしいという感じはすぐになくなてしまった。そうしてこの珍しい地震の振幅の経過を出来るだけ詳しく観察しようと思って骨を折っていた。主要動が始ってびっくりしてから数秒後に一時振動が衰え、この分では大したこともないと思う頃に、もう一度急激な、最初にも増した烈しい波が来て、二度びっくりさせられたが、それからは次第に減衰して長周期の波ばかりになった。・・・
後略
この頃の寅彦さんは東京帝大教授。なんという冷静な観察眼。呆れてしまうくらい。自分が地球物理学者であることを、強烈に意識しちょったものと思われます。この寅彦さんも、母から、安政南海地震の様子を聞いて育ったようです。
理性的科学者にとって、過去の言い伝えとか記憶などは、貴重な資料として重要視する必要があることを、キチンと理解しちょったことがわかります。