のえくりの夏〔4158〕2014/09/03
2014年9月3日(水)小雨
昨日のにっこりで、元親に朝鮮から連行されてきて、一豊さんに、豆腐の製造販売の特権を付与され、住まわされた唐人町の話を書きました。
では、豆腐屋さんがズラリ並んじょった唐人町はどこか。それは、ここ、堀詰から真っすぐ南の鏡川畔から、山内神社の手前までの土手。
昨日は星空が広がる良い夜明け前でしたが、今朝は小雨。しばらくこんな天気が続くようで、今年の異常気象はまだまだ続くがですね〜。そんな小雨の鏡川北岸。土手と川の間に、少し広めのスペースが続きます。ここは、藩政期も、広い河原になっちょったと思われます。この広い河原の北側、城下町を守る土手の上に、朝鮮から技術を持ってきて製造販売され続けてきた唐人豆腐。寛政四年(1792年)の住宅地図で、ここから柳原までの豆腐屋さんの数を数えてみますれば26軒。豆腐屋さんだらけ。
恐らく、土手の一番高い場所に店が並び、川の方向いてお店を開けちょったものと思われます。なので、この河原、一年を通じて、早朝は多くの人々が往来した賑やかな場所やったにかありません。
そんな賑やかな広い河原。
この風景で、どうしても思い出すのが、このにっこりでは何度も何度もご紹介してきた「のえくり」。
幕末。慶応三年(1867年)。夏。
どこから始まったのか不明ですが、西日本を中心に、民衆が掛け声を挙げながら踊りまくる「ええじゃないか」が大流行しました。民衆にも、何かが「変わる」予感が横溢し、その期待へのエネルギーが爆発したものでしょうか。今までより良い時代が訪れる、という、根拠はないが、なんとなくそんな感じがする、という雰囲気でしょうか。そんな「ええじゃないか」は、京を始め、四国でも盛んに歌われ、踊られたと言います。
その頃土佐では。
毎夜、まさしくこの前の河原、豆腐屋さんの南側の河原で「のえくり」が繰り広げられたと言います。文献によれば、その賑わいは、京都、四条河原夕涼など比べ物にならん、というものやったにかありませんね。様々なお店も出店。食べ物屋、見せ物屋、のぞきからくり、もちろん遊女も。300軒を超える露店が並んでおりました。で、ここに各地から集まってきた民衆は、前のヒトの帯に手を掛けるようにして数十人、多い場合は数百人が連なり、踊り歩いた、というもの。住民参加型。凄い熱気であったと言います。もちろん、川面には屋形船が大量に浮かび、夜を徹して騒いだ、そんな慶応三年夏。
慶応三年と言えば、龍馬が土佐へ久々に帰って来ちょります。9月23日のこと。久し振りに上町の家族とも面会しちょりますね。上町は、この鏡川畔を西へ少し行った場所。その9月23日頃、まだ、ここで「のえくり」騒ぎは続きよったと思われます。直後の11月15日には暗殺されることになる龍馬さん、土佐での「のえくり」の賑わいを見たでしょうか。龍馬のことですき、ひょっとしたら遊びにきて「のえく」ったかも知れませんね〜。そんな風景を妄想してみるのも楽しゅうございます。
「のえくり」のピークは夜の10時〜12時頃やったと言います。遅い時間まで、昼のように明るい河畔は盛り上がっておりました。もちろん酔うたんぼも多かったのは、言うまでもありません。土佐ですき。
この写真を撮影したのは、今朝、4時過ぎ。
慶応三年夏のその時刻。豆腐屋さんからは、湯気が上がり始める時刻でしょうか。河原では、そのまんま酔いつぶれた人々が、明け方にぞろぞろと起き出してきたそうです。
今では想像もできない、そんなエネルギーに満ちあふれた風景。
その当時、毎年、夏になると、この河原は、出店が出て賑わいよったそうですが、特別すごいことになったのが、慶応三年の夏。のえくりの夏が、ここにありました。