アイスクリンと長岡謙吉〔4148〕2014/08/24
2014年8月24日(日)午前中はちょっと青空
昨日の午後。8月になって初めてと思われる、夏の青空が広がりました。あのまんま夏に戻ってくれたら嬉しかったのでありますが、夜になって、また、雨。
今朝は、いつものように湿り気の多い朝。しかし、雲は多いものの青空も見えます。で、昨日のにっこりに、クマゼミの鳴き声が聞こえんなった、てなことを書いてしまいましたが、違いました。
今朝、堀川沿いを歩いておりますと、勢力は強くはないものの、クマゼミの声。まだ、かろうじて夏は残っておりました。クマゼミの声は、夏の名残り。
この雲を誰かが吹き飛ばし、あの、直射日光が照りつけるジリジリした夏が再びやってくることを願います。夏は焼け付く様なお日様がないと、いけませんきに。
今日は午前中、高知市文化プラザかるぽーとに居ります。かるぽーとの西側の道路を撮影してみました。浦戸町。
浦戸町と言えば1×1=1のアイスクリン。現代の高知県人、我々世代にとって、浦戸町といえば1×1=1。その向こうに、そのアイスクリン屋さんの本部が見えます。
浦戸町。こないだも書きましたが、藩政期初期、山内の殿様が大高坂山に本拠のお城を築城して城下町を建設する際、最初につくられた町のひとつ。
長宗我部元親さんは、豊後戸次川の戦いで嫡男の信親を喪うた後、岡豊を捨てて大高坂山に本拠を移しました。現在の高知城の場所。しかし、その後、浦戸の山のてっぺんにお城を築いて本拠をそこに移しました。狭い狭い浦戸の浦に城下町。
浦戸の城は、元親さん、朝鮮出兵などに備える為の一時的な砦であった、という説もあります。本格的な本拠とするには、余りにも、城下町スペースが狭すぎる。
関ヶ原の後、土佐へ入国した山内氏は、すぐさま、大高坂山の麓に城下町を建設しようと決断。そりゃあそうだ。山内一豊は、治水、都市計画の専門家。優れた土木プランナー。家康を始め、当時の戦国武将には、実に、優秀な土木プランナーが多いのに驚かされます。で、潮江川と大川に挟まれた土地に、大きな可能性を見いだした一豊くん、大規模な都市計画プランに基づき、街づくりを開始。
で、手っ取り早い人口増加の方法として採用したのが、土佐国各所の城下町を、そっくりそのまま移設してくる方法であったのは、ご承知の通り。
その一つが浦戸町。
浦戸の町、住人を移設してきて、浦戸町。特に、水主を移住させ、藩主の御用舟などの運行を任せたと言います。浦戸町は、高知の城下町でも、重要な街のひとつとなりました。
幕末。
その浦戸町の医師の家に産まれたのが長岡謙吉くん。近所の絵師、河田小龍さんに、天下の状勢や国際関係を学び、小龍の縁で、龍馬とつながり、その文章力や事務能力、統率力が買われて海援隊文司となって龍馬の知恵袋になったのも、ご承知の通り。
長岡謙吉くん。船中八策を文章にしたのも彼だと言われ、龍馬亡き後の海援隊長になったのも彼。明治新政府で活躍し始めた明治5年、39才の若さで逝去。惜しまれる有能な人物です。
後に宮内大臣などを歴任した田中光顕や、枢密顧問官になった佐佐木高行などと比べても優秀で、もっと後世まで生きていたら、日本の国家で重要な働きをしたものと思われる人物、長岡謙吉さん。
そのすごい人物を顕彰するため、昨年3月、その向こうの左手の公園に、顕彰碑が建立されちょります。アイスクリン屋さんの向かいに、長岡謙吉さんの顕彰碑。そんな素敵な浦戸町