大震災から3年の風景〔3982〕2014/03/11
2014年3月11日(火)快晴
あれから3年。
あの凄まじい震災は、丁度3年前の今日、午後のことでした。あの午後は、朝倉にある福祉交流プラザで会議がありました。その会場へ入ろうとしゆう時に携帯に地震速報。その震度を見て、目を疑いました。何かの間違いではないか。
会議に入りましたが、とんでもないことが起きていることが、段々と判ってきて、会議終了後のロビーで見たテレビの画像にものずごい衝撃を受けたことを、今でも鮮明に覚えております。
あれから3年。
まだまだ復興にはほど遠い被災地。果てしない弛まぬ努力を積み重ねていかなくてはならないことを、我々は忘れてはなりません。そして、高知に住む私たちは、この教訓を来るべき南海地震に最大限に活かす義務があります。
写真は、こないだもご紹介しましたが、宇佐、萩谷口の供養塔。安政南海地震で、揺れや大津波によって亡くなったこの地区の方々の菩提を弔い、震災の状況を記して、後世に伝えていこうとして建てられた供養塔。正面に波阿弥陀仏、そしてぐるりと取り巻くように津波の状況を刻んでおります。その内容は、何度かご紹介しました。
この文章が書かれたのは安政4年11月。つまり、安政南海地震から丁度3年経過した時期。やっと、過去を振り返る事ができるようになるのが、3年目くらいなのでしょうか。
宇佐の震災、そして震災後の状況は、何度もご紹介しゆうように、宇佐、真覚寺の住職、静照さんが、日記にして膨大な文章を残してくれちょります。
その通称「真覚寺日記」から、震災3年目のものを現代文に読み下してみます。
安政地震は嘉永七年(安政元年)十一月五日に発生しておりますので、丁度3年目の日記。
安政四年十一月五日 曇り
お昼過ぎ、小揺れ。夕方になって雲は退き、晴れてきた。暮れてきた頃、新町緑屋へ御取越に行く。夜中は暖かで、曇ってきた。
この前後の日記を読んでみても、もう、3年経過するというのに、まだ、毎日のように余震が続きます。現在の東北でもそうなのでしょうか。もう、ニュースにもならない余震が、ずうっと続いているのでしょうか。遠く離れた高知に居ますと、そんなことを想像することもできんなっちゅうことに気付いて愕然とします。
安政五年六月十五日の真覚寺日記。つまり、この3年目のものから7ヶ月程経過した日記に、この供養塔にお経を納めて法要した記事がでてきます。たぶん、この供養塔が立てられたのは丁度3年目ですが、納経、法要したのはその半年ちょっと後、ということになります。その日の日記を、現代文に読み下してみます。
安政五年六月十五日 晴れ
夾竹桃をきり、本堂へたくさん飾った。お昼過ぎに萩谷口へ行く。ここは塚地へ越える往還で、路傍に立つ碑の下にお経を書写して納め、碑前に香華を供え、旅本尊を供えて、その御仏前で読経した。40人ばかりが参列。法談を一席お勤めした。その法談の趣意を略すと、下記の通り。
この碑を立てるのに、理由が3つあった。
まず、正面に南無阿弥陀仏の六字名号を彫りつけ、碑の下にお経を納めて、今日読経するのは、震災津波で溺死した男女の追福の為である。第二に、碑の三方に震災津波の模様を詳しく記したのは、今後、又大地震や津波が襲うてきた時に、この碑に記した意味を見伝え、聞き伝えておけば、後世の人々の心得になる為である。第三に、ここは四国遍路の通り道なので、人々が通行する際に念仏を唱えてくれて助縁となる為である。有縁無縁、共々、来世の結縁となって、人々に善心を生じさせる善根となるのである。後略・・
せっかくのこの先人の思いを活かすには、法要を欠かさないことと、碑文の内容を、誰にでもわかるように読む下して掲示すること。先人の思いを活かしたい。
この日記の前後は、もう、幕末土佐の興味深い日常が生き生きと描かれちょります。そこには、力強く復興していき、普段の生活を取り戻していく風景が。
今回の大震災でも、もちろん、力強く復興していく姿、日常を取り戻して行く風景を見る事ができて、頼もしく感じたりもします。努力に頭が下がります。しかし、一番の違いは、やはり、原発事故によっての先の見えない状況でしょう。これは、過去に繰り返されてきた大震災にはなかったこと。人間は、大自然の脅威よりも、取り返しがつかないことをしでかしてしまう。その教訓を忘れてはならないと、碑に刻んでおきたいと感じます。