小雨の宇佐、萩谷口〔3976〕2014/03/05
2014年3月5日(水)小雨
今日は3月5日。もうちょっとで、あの東日本大震災から3年になろうとしています。このにっこりでもご紹介してきたように、高知県内各所に残る、安政南海地震のことを刻んだ碑は、安政地震から3年ちょっと経過した安政5年に建立されちゅうものが多いです。大地震と津波から3年経過し、毎日何度もあった余震がやっとおさまってきて、大震災を振り返ることができるようになってきたがでしょうか。そして、改めて、その状況を後世に伝え、戒めにし、参考にしてもらうために石に刻もうと考えたのでありましょうか。
ここは宇佐。萩谷口。この碑は、安政5年6月に建立された供養の碑。建立の日に法要したのは、宇佐、真覚寺住職の静照さん。震災から後、詳細な日記を書き続けたことで有名な和尚さん。その日記は、貴重な貴重な幕末の資料となっております。
この碑に刻まれちゅう内容は、以前にもご紹介しました。津波が押し寄せて来た時の様子を克明に記した後、将来、地震、大津波に遭うひとらあは、何の用意が無かったち、とにかく、早く山の平らな、そばに岩の無い場所を選んで逃げんといかん、と刻まれた碑は、我々に多くのことを教えてくれます。
静照さんの日記によりますれば、この碑をこの場所に建立することになった理由は3つ。
一つ目は、正面に六字名号、つまり南無阿弥陀仏を刻み、その下にお経を納めて、地震津波で亡くなった方々を「追福」するためという理由。供養塔ですね。二つ目の理由は残る三面に地震の様子を克明に刻み、後世の人達の心得にするため。そして三つ目は、ここが、四国遍路の通り道で、お遍路さん達は、その碑面の名号を見て、真言や念仏を称えてくれるだろう。そして、お遍路さんぢゃあ無うても、心あるヒトは手を合わ せるだろう。それが来世の縁となり、ヒトに善心を生じさせ、善い報いを招くことになるだろう、というお坊さんらしい心遣い。
そう。ここは、遍路道やったのでありました。
宇佐の街から北へ、谷川沿いに北上していった場所。どうやら、安政地震津波も、ここまでは来んかったにかありません。
今、あの大震災から3年が過ぎようとしています。余震はかなりおさまってきました。そして、こないだの東北の皆さんへの世論調査でも明らかになったように、その記憶の風化が始まっているようです。当事者ではなかった我々は、もう、遠い過去のこととして、あの凄まじい出来事を他所の世界の話であると感じ始めちゃあせんでしょうか。
まだまだ、震災からの復興は遠い東北。特に原発のことは、絶対に忘れてはならない、なぜ、ああなってしまったのかを忘れてはなりません。
そして、人間の力では絶対に防ぐ事ができないと感じたあの大津波。その記憶が風化し、堤防や施設で対策ができると勘違いしてきていたら、それは大変なこと。
体験者の戒めは、忘れてはならない戒め、風化させてはならない戒めでしょう。
ところで、ここに建てられちゅうのは、この地震碑と、地元の教育委員会が建てた説明板、そして「安政地震の碑」と書かれた立て札。足下には、へんろ石。
残念なのは、この地震碑に刻まれた文章の内容がわからないこと。風化して文字が読みづろうなっちゅうがに加えて、昔の文章なので今の人たちには読めない。
せっかく、安政地震に遭遇した人々が、後世への教えとして刻んでくれた文章ですき、今の人たちにもわかるように、読み下し文を、ここに掲げちょくべきでしょう。それは、県下各地に残る様々な地震碑にも言えます。
東日本大震災の後、そんな問題提起をしたことがありますが、それこそ普段の生活にかまけて、推進することができちょりませんでした。これは反省せんといけません。これこそ、自分の中での震災の風化やと思いました。反省し、前に進みます。