八幡信仰と須留田八幡宮と環境配慮型打杭機〔3953〕2014/02/10
2014年2月10日(月)曇っちょります
今朝は高知。汽車でモンてきました。飛行機は、昨日一日、ダイヤも乱れたり欠航になったりで大変やったにかありませんが、列車はスムーズでした。そしていい事がありました。
東京から岡山までの新幹線では、駅弁を食べてビールを飲んで読書して、という至福の時間を過ごしよった訳ですが、気持ち良くなって途中から爆睡。
夢の向こうから「岡山のつぎは、広島に停まります」という声が聞こえてきて目を覚ますと、新幹線は停まっちゅう。しかも乗り換えの岡山駅に。まずい!と思い、立ち上がって荷物をかき集めます。もう、間に合わんとあきらめつつ。
そのとき。
隣に座っちょったおんちゃんがスックと立ち上がって一言「大丈夫!」。そして入り口に向かってダッシュしたではありませんか。慌てて荷物をかき集め、PCの電源コードを引きずりながらドアのところへ行ってみると、そのおんちゃんが、車掌さんがドアを閉めんように頑張ってくれちょりました。あのおんちゃんが居なければ、また、広島までの旅を往復楽しまんといかんなるところでした。
ゆっくり御礼を言うこともできませんでしたが、本当にありがとうございました。見知らぬおんちゃん。
そんなこんなで、「おいしくて濃い2日間、列車で行く雪国東京の旅」を終え、家でお風呂に入ってゆっくりしました。ふう。
ここは今朝の赤岡、須留田八幡宮さん。昨日の朝、雪の蒲田八幡宮さんからお届けしたので、今朝は小雨の赤岡、須留田八幡宮さん。
毎朝お参りするのは、野市、上岡八幡宮さん。日本には、ホントに多い八幡様。その御祭神は、応神天皇である場合がほとんど。が、八幡信仰の由来から辿ったら、最初はそうではなかったにかありません。
八幡神は、元々は九州、宇佐の豪族宇佐氏の氏神。それが、紆余曲折を経て、朝廷では伊勢神宮の天照大神に次ぐ神様として応神天皇を祀るようになった訳です。そして、神仏習合の象徴的存在でもありますな。
八幡大菩薩。昔の人々が、願い事をしたりするときに南無八幡大菩薩!など唱えたりしよりました。元々、神様であった時はヤハタの神であったのが、仏教と習合してからハチマン大菩薩、などと呼ばれるようになったがにかありません。本地垂迹説では、八幡神は阿弥陀如来。で、南無阿弥陀仏は南無八幡大菩薩と同じことになる訳ですね。
今、気付いたがですが、南無阿弥陀仏と唱える場面と、南無八幡大菩薩と唱える場面とでは、ちょっと用法が違うような気もします。八幡神は武家の神様なので、その違いながでしょうか。
そういう訳で、武家の神様としても有名なのが八幡神。中学生の頃、吉川英治の新平家物語かなにかを読みよって、源義朝やったか木曾義仲やったか忘れましたが、我こそは八幡太郎義家の末、などと名乗ったシーンがあって、印象深く覚えちょります。そうか、源家は、八幡様と関係が深いがや、と。その後、歴史を勉強するようになり、後三年の役に登場してくる源義家。しかし、歴史教科書だけ読むと、何故、源義家を、後の義朝たちがご先祖さまとして理想にしちゅうのかがよくわからない。それほどのとてつもない大活躍には見えんので。
どうやら、義家の時代、摂関政治から武家が台頭してくるターニングポイントで、そういった意味合いで、重要なご先祖様、ということになることが理解できたのは、ずっと後になってから。
ここ須留田八幡宮の縁起は、ようわかっちょりません。一説には、元弘年間の勧請と伝えられるそうです。元弘年間と言えば、後醍醐天皇が北条体制から朝廷へと権力を取り戻そうとしゆう時期ではありませんか。北条氏は平家。鎌倉幕府を倒幕すべく、後醍醐天皇に加担した武家勢力は、新田義貞や足利尊氏などの源氏勢力。そんなことと関係あるのか無いのか、とにかくその時期に勧請されたとも伝えられる須留田八幡宮さんは、隣家の方が環境配慮型打杭機の製造で大成功を収め、そのご寄進もあって、境内と社殿がこじゃんと立派になっちょります。
夜明け前、荘厳に浮かび上がる須留田八幡宮さん。