松渕川公園今昔〔3946〕2014/02/03
2014年2月3日(月)薄曇り
ここは朝4時の高知市中島町、松渕川公園。今朝の予想最低気温が10℃。この時間の体感温度はもっと高い感じがします。コートなんぞは要りません。なんという暖かさ。明日明後日は冷え込むそうですき、寒暖差にやられんように気をつけんといけません。
松渕川公園。この南側を、堀川からつながる小さなお堀が流れよりまして、それが「松渕川」という名前やったので松渕川公園。この南隣で小生、中学2年生までを過ごしました。この公園が、小生小学生時代のメイン舞台でありました。
公園の改修工事で、当時の遊具はすっかり無いなってしまいました。が、樹木は残り、当時よりも成長して大木に成長しつつあります。当時の遊具の痕跡は、写真右端。コンクリート製の船がこちら向いちょります。あれだけは、昔からあります。改修前は、あの船の中にマストのようなものが立てられ、登れるようになっちょりました。
写真左端のところに砂場があり、その右手が、コンクリート製の汽車。
幕末の、住宅地図を見てみると、この場所に住んじょったのは宍戸俊三さん。200石取りの武士ですき、まあまあの上級武士。藩政期前半の住宅図では手嶋さん。以前にも書きましたが、藩政期、武家の出入りは激しかったようで、宅地の主人はしょっちゅう入れ替わっちょります。今、我々が考えるより、流動性のある社会であったようです。
上級武士の住む郭中は、明治維新によって解体。広い区画をそのまま利用して公共の建物ができたり病院が建ったり。また、広い区画が細かく分割され、貸家ができ、庶民が暮らしたりお店を開いたりするようにもなりました。
ひろめ市場、あそこがひろめ市場になる前は、ひろめ屋敷と呼ばれる、住宅が密集してゴチャゴチャしたエリアやったがは覚えちょりますよね。小学校の同級生が何人も住みよりました。
元々は土佐藩家老、深尾家の広大な屋敷。こじゃんと細分化されて、住宅密集地になりました。幕末に深尾弘人(ふかおひろめ)さんが住みよったということで、元深尾家の敷地にして住宅密集エリアをひろめ屋敷と呼びよったのは、今更書くまでもありませんでした。ごめんなさい。
で、この場所。松渕川公園。戦前まで、ここには「高知座」という芝居小屋がありました。芝居小屋と申しますか、高知ではかなり大きい劇場。明治30年の市街図を見ますと、その地図に掲載されるような大きな劇場は、堀詰の「堀詰座」とここ「高知座」の二つだけ。
調べてみますれば、ここに高知座ができたのは明治19年。この場所がそれまで何であったのかは、不明。
元々、玉水新地に明治5年につくられた「広栄座」が起源。維新後、そういった施設をつくることが許可され始めた時代。その嚆矢、「広栄座」。
開設の年、大阪大芝居の尾上多見蔵一座がその「広栄座」にやってきて40日間興行を開催。すさまじい人気であったようです。土佐の高知で、大阪の人気芝居を見れるというスペシャルイベント。連日大入り。で、その大入りのお客さんに弁当寿司を売って大儲けした人物がおりました。松岡寅八さん。その利益を元手に料亭「陽暉楼」を同じ玉水新地に創設、西日本随一の妓楼と呼ばれるまでに発展させました。
そのきっかけとなった「広栄座」。明治19年に、この場所に移ってきて「高知座」となり、戦前まで栄えました。
この、元上級武士のエリアは、維新後すぐの頃は、盛り場でもなんでもありませんでした。明治19年頃になると、堀詰界隈が賑やかに発展し、商店や飲食店ができてきて、芝居小屋ができる環境が整うてきちょったと想像できます。20年足らずでの変貌。幕末、そこに住みよった宍戸さんもビックリしたでしょう。