昨日と同じ汽車で昨日と同じ事を考える〔3942〕2014/01/30
2014年1月30日(木)雨
雨の朝。昨日と全く同じ、高知駅6時発の特急南風に乗って、本州方面へ出張にでかけよります。昨日と違うのは、しっかりと降り続ける雨。昨日広島へ行って、午後には帰ってきましたが、今朝はまたまた本州です。
昨夜、家に帰ったのは1時半過ぎ。さっき。この年になって、こんなに遅うまで飲むことは滅多に無いなりました。ですきに根みたい。昨日の朝よりも、ずっと眠たいです。しかも、昨夜最後に寄ったお店ではカレーうどんを食べてしもうたので、完全にカロリーオーバー。ああ、悔いが残る。けんど、夜中に食べるカレーうどんは美味しかったですね〜。せられません。
写真は、昨日の朝と同じ場所から同じ方向を撮影したもの。雨に濡れた街が色とりどりに光ってキレイな駅前の風景。
さて。昨日のにっこりに、追手前小学校跡地の発掘調査で中世の遺構がでてきたことを書きました。以前、江戸時代の庭園の池の遺構が出てきたという新聞記事よりも、記事の扱いは小さかった中世の遺構。しかし、どう考えても、そのビックリ度、歴史的価値で言えば、中世の物の方に軍配が上がります。ひまわり太郎としては。
あの場所に藩政期の遺構が埋まっちゅうのは自明の理。江戸時代を通じて、そこに誰が住んじょったかも明らかになっちゅう場所で、しかも明治以降運動場として利用され、大きな構築物の基礎工事が行われんかった場所ですき、間違いなく藩政期の屋敷の遺構があることはわかっちょりました。問題は中世。山内氏入国以前。
昨日も書きましたが、現在の高知市中心部、江戸時代には城下町として栄えたエリアは、平安期には浦戸湾の海の底でした。そこに徐々に土砂が堆積し、灌漑が施されて、陸地が広がっていった中世。
で、今回の調査でわかったように、鏡川と江ノ口川が運んで来た土砂によって、大高坂山の東側に舌状に突き出した小高い丘陵ができ、そこで人々が暮らすようになった訳です。いつの頃でしょう。たぶん鎌倉時代。700年以上前のこと。
そして、その、中洲のような土地を中心に徐々に都市が形成され、戦国時代を迎えたのでありました。
戦国期、この土佐の中原に磐居したのは国沢氏。国沢将監さんが有名。今の堺町界隈にあったと思われる、鏡川が運んで来た土砂で形成された小山に城を築き、一帯を支配しました。その頃は、もう、かなりが陸地化しちょったがでしょう。ただし、湿地帯。
国沢氏は長宗我部氏に下り、土佐の中原も長宗我部勢力下に。で、元親さんは、大高坂山に城を築き、城下町を構築しました。各所から人々を移住させ、新しい都市をつくる。
その頃、湿地帯の灌漑や埋め立てが進んだかも知れません。しかし元親さん、なんらかの理由で浦戸へ本拠を移し、都市計画は頓挫。そして山内氏の入国で新たな都市計画のもとに埋め立て、灌漑が行われて、城下町ができた訳です。
江戸の街もそうですが、城下町をつくる場合、その自然地形をうまく活用する必要があります。高知の城下町も、大高坂山から東に突き出した丘陵地帯を中心にしてつくられたことは間違いありません。
追手前小学校跡地にでてきた中世の遺構は、そんな、城下町以前に徐々に形成されていった都市の様相、成り立ちを想像させてくれる画期的なものなのでありますね、私にとっては。
お城のしゅっと東、くみあい興産駐車場跡地で出土した中世遺構も、同じ意味で非常に重要なもの。そこに歴史資料館が建設されることになっちょります。ホンモノ以上に歴史を伝えてくれるものはありません。そんな意味で、歴史資料館の役割に鑑み、その地下に、出土された中世遺構をそのまま保存展示できるようにならんでしょうかね。そこにどんなレプリカの展示をするよりも、ホンモノの遺構は、圧倒的迫力で過去の様相を伝えてくれると思うがですけんど。なにより大切なのはホンモノです。