高知の城下の中世〔3941〕2014/01/29
2014年1月29日(水)晴れ
暖かい朝になりました。今、出張に向かう汽車の中で書きよります。ちょっと眠たい。
昨日はお昼から酪農組合の新年会と乳質表彰。南国市のグレース浜すしさんで、グッスリ飲りました。酪農家さんの飲み会ですき、もちろん日本酒の返杯が中心。
それが終わってから、土電の電車に乗って高知市内へ移動。与力町デポに置いちょった車の中でしばし仮眠をとってから、ホテルの商社会の新年会。ビールを飲んで元気になりました。
そっから、高知のトンガった農家さんたちの集まりへ移動。すごいものを作る生産者だけの小さな集まりですき、内容が濃い濃い。一次会3つ目ですが、頑張りました。しかし最後の方はうつらうつら。体力勝負ですな、まっこと。何時に帰ったかは覚えちょりません。
で、今朝は6時の南風に乗って本州へ向かいゆうのであります。で、ちくと眠たい。このにっこりを書いちょいて、寝ます。
写真は、高知駅に停車中の南風車内から眺めた電車通り。南の方角。眼下に土電電車の停留所。
土讃線が開通して高知駅ができるまで、田んぼしかないような場所でした。街道は、もうちょっと東を南北に通っちょりました。
その向こうに江ノ口川が流れ、江ノ口川と鏡川の間に形成されたのが高知の城下町。言わずと知れた山内家の都市計画。戦国期、一時的に長宗我部元親さんも、今の高知城の山を本拠にして城下町をつくろうとしましたが、色んな要因があって本拠は浦戸に移しました。
関ヶ原の後入国してきた山内氏は、治水の専門家。で、海運の便が良く、城下町を形成するための広い土地があるこの場所に国の中心を築くことにした訳ですな。
大高坂山に築城。その大手門からまっすぐ東向いてメインストリート。
今朝の高知新聞に、追手前小学校跡地の発掘調査で、中世の建物痕跡が発見された、という記事が載っちょりました。小生待望の中世遺跡。その発掘で、中世の頃は、大高坂山から東へ舌状に張り出した丘陵になっちょったらしいことが確認されたそうです。なるほど。
以前、くみあい興産駐車場跡地の発掘で中世の水路などの遺構が出土しちょりますが、あれは舌状丘陵の根元にあったことになります。
鏡川と江ノ口川に挟まれた中州のような土地。その真ん中に大高坂山があり、そこから川が流れる方向、つまり東の方向に土砂が堆積して丘陵のような地形を形成しちゅう。そんな風景が目に浮かびます。鎌倉時代から南北朝の頃、人々は、大高坂山を中心に、東に延びる丘陵上に耕作地や住居をつくって生活しよったがでしょう。
今回の発掘で、最も期待しちょった中世遺構。確認できて良かったです。
で、新聞によりますれば、その舌状丘陵は、どうやら追手前小学校の真ん中辺りまでで、そっから東は一段下がった湿地帯であった可能性があるそうです。
さて。そんな土地に城下町をつくる。治水、土木工事の専門集団であった山内家。土を盛って宅地を造成し、そこに都市をつくりました。
舌状丘陵の尾根部分を通る東西の道。これをメインストリートにしました。そのメインストリートに面して家老級の重臣の屋敷が門を構え、丘陵の斜面を利用するように庭をつくる。これは、台地の尾根部分に大きな道をつくり、その道に面して長屋門を、斜面を利用して庭園をつくった、江戸の武家屋敷の考え方と同じ。1軒1軒が広く、自然溢れる庭園を持っちょった、日本独特の武家屋敷が並ぶ風景。
伝説の英雄、大高坂松王丸の時代。南北朝の頃、現高知城の山に大高坂氏が本拠を置き、その東側の丘陵上に家臣や庶民が暮らしよった中世。くみあい興産駐車場跡地とあわせ、その頃の風景の輪郭がかなりはっきりと想像できるようになりました。
700年前の、追手筋界隈の風景。