坂東眞砂子さん〔3940〕2014/01/28
2014年1月28日(火)快晴
作家の坂東眞砂子さんが亡くなりました。享年55歳。高校の、4つ先輩になります。
坂東さんと初めて出会ったのは、8年前になります。ある勉強会の講師にお呼びしたのがきっかけでした。普通は2時間の講演、質疑応答があって、その後懇親会となるのですが、坂東さんは、かしこまった状態で話してもねえ、ということで講演の始めから皆でビールを飲みながら、ということになってしまいました。
で、場所を移動しての懇親会で、興味のある作品や歴史、民俗のことを話すうちに、メンタリティの部分で、非常に共鳴する部分があることに気付きました。どうやらそれは坂東さんから見てもそうやったようで、その後、高知へ帰ってきて歴史民俗愛好家たちと飲む際にはお呼びがかかるようになってしまいました。
「鬼神の狂乱」という、大豊の犬神憑きを題材にした作品を上梓された際には、大豊町で開催された出版記念講演会の鼎談相手として、高知県立歴史民俗資料館の梅野学芸員と一緒に指名されました。私のような素人が。研究者の目線と一般人の目線を絡み合わせたかったがやと、後になって思い当たりました。
旧鏡村の奥、行き止まり、樽の滝にある古い鉄筋コンクリート三階建ての建物を買い取り、そこに一人で住んで小説を書き始めたときには、すごい、と思いました。隣の家まで1km以上離れた山奥の一軒家。しかも古い鉄筋コンクリートの大きな建物に女性一人。そこで、あの雰囲気の作品を書く。やっぱり素晴らしい作品を書く作家さんは違う、と感心したことでした。
その建物に、見事なセンスで内装を施し、気の置けないメンバーとの食事会(飲み会)を何度もやりました。もちろん高知市内の、お気に入りの料理屋さん(ゆう喜屋さん)で、明るいうちから日付が変わるまで、歴史愛好家、マスコミ関係者などのいつものメンバーで食べて飲んで飲んでしゃべって、ということをビッシリやりました。最後は冷酒をばんばか飲むので、ほとんど記憶を失うくらい。
私は、坂東さんの「手下」であると公言しておりました。
坂東さんは、文章表現を、オブラートで包んだりしません。今朝の新聞にも書いておりましたが、重い直球。なので、知らないヒトからは、誤解を受けやすいタイプです。間違いなく。しかし、一緒にお酒を飲みよったらわかるのですが、ホントに優しい心根の、慈愛に満ちた方です。坂東さんは、自分の考えや、自分自身のこと、思い、感情を、いつも、そのまま表現します。そのまんま表現します。普通のヒトなら、反響とか評判とか世間体とかを気にした、そういった要素の入った表現にするところを。
これができるのは、ヒトとして、純粋で「良い」本質を持っていたから。そうやと思います。
バヌアツ共和国に移住し、バヌアツと高知を行き来するようになっても、高知に帰って来た際には、いつものメンバーで、濃い、マニアックな、至福の時間を過ごさせて頂きました。
知らないヒトは、表現の上辺だけをなぞって、色々、評価したり批判したりします。が、近くで親しくさせて頂いた人たちは、皆、坂東さんの優しさを知っています。その優しさから、あの、時には激烈とも見えるような表現が沸き上がっていることを知っています。
直木賞を受賞した作品「山妣(やまはは)」は、山に棲むと言われ、住民から怖がられている山姥の話。その恐ろしい山姥が、実は、余りにもキタナく辛い現実社会から離れて、大自然の中で、自然とともに生きる事を選んだ女性である、という物語です。しかし彼女は、その外見や野獣のような生き方からは想像もできない、やさしい「母」の心根を持った山妣(やまはは)でした。皆が持っているイメージとは裏腹の、本当は誰よりも優しい慈愛に満ちた山妣(やまはは)。
坂東さんに、その山妣のイメージを重ね合わせてしまいます。そんなこと、本人に言うと、「なに言いゆうがで〜」と叱られそうですが。
安らかに、お眠りください。本当にありがとうございました。
合掌。