街道をたどる〔3899〕2013/12/18
2013年12月18日(水)雨
冷たい雨の朝。雪になるほど寒うはありません。山は雪でしょうか。
昨日、明治期の、土佐東街道について書きました。そのネタ地図はこれ。「高知県の地名」という1983年平凡社発行の本に付録として付いちょった、明治20年頃に参謀本部陸軍部測量局によって作成された、精密な地図。
で、昨日のルートを、この地図で辿ってみましょう。
城下、山田橋のところから北上して比島。一宮、布師田を通って国分川を渡り中島。常通寺、江村、吉田、小籠、そして後免。野田、立田、物部川を渡って野市。
縮尺が20万分の1ですき、わかりにくいですが、実際の道は国分川を渡ってしばらくは川の南岸を通り、そして中島へと向かいよります。
昨日も書きましたが、この街道、今も見事に真っすぐたどれます。電車通りができるまで、城下と県東部をつなぐメインルートのひとつであった街道。
布師田の文字の下や、後免、山田野地の文字の下に、黒丸横棒のマークが見えますが、どうやら郵便局。布師田は、大きな町でした。
明治期は、布師田で、東街道と北街道が分岐しちょったことがわかります。北街道は、国分川の北を通って蒲原、岡豊山の南を抜けて国分へ、とつながっちょった訳です。
東街道が、どこで国分川を渡っちょったのか。昨日のにっこりを見て、同級生のタベシマ君が、地元の古老の話として、今の布師田橋の200mばあ上流やった、という情報をくれました。なるほど。川がちょっと蛇行して、浅うなっちゅうみたいにも見えます。
Googleマップを見て、感じるのは、藩政期の道は、ちょっと違うルートやったかも知れん。ということ。上に書いたルートがあまりにもまっすぐ過ぎる。往事は、もっと、くねくねと集落を通りながらの街道であった感じがしますな。
ちなみに、藩政期には、東街道と北街道は、中島で分岐しちょったそうです。つまり、北街道は、一旦国分川(布師田川)を南へ渡り、中島の集落を通って、またまた国分川を北へ渡って国分へと向かいよった訳です。何故、わざわざそんなルートにしたのか。中島を通る必要があったがでしょうね、やはり。
藩政期に国分川を渡っちょった橋も、上に書いた橋と同じ場所でしょうか。19間という広い川幅。で、藩政期の北街道は、中島から北東に進んで川幅10間の国分川を渡った、となっちょります。そして、今度は広さ15間の領石川を渡って、北上していきました。
街道はそういうことですが、遍路道はどうなっちょったのか。この地図にも、29番の国分寺さんが見えます。この地図がつくられた当時は、一宮、土佐神社さんに隣接する善楽寺さんは、廃仏毀釈の影響で廃されちょったので、見えません。その頃は洞ヶ島の安楽寺さんが、30番になっちょりました。31番は五台山の竹林寺さん。
この地図の当時は、国分寺さんから北街道、中島から東街道を通って比島まで行き、そっから西進して安楽寺さん。で、五台山へと戻ってくる、てな感じやったのでしょう。
善楽寺さんが30番であった藩政期はどうやったのか。
今年、田辺島に、遍路石を発見しました。と、いうことは、国分寺さんから北街道、東街道で一宮へ行って30番の善楽寺。それから、ちょっと遠回りになりますが、田辺島を通って31番の五台山、竹林寺さん、と進みよったにかありません。
今は、善楽寺さんが30番札所に復活し、安楽寺さんは、その奥の院になりました。時代とともに、道も風景もどんどんと変わっていきます。