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今日のにっこりひまわり 毎日健康社員日記

明治期の街道〔3898〕2013/12/17

明治期の街道

2013年12月17日(火)薄曇り

暖かい朝。
昨日、明治期の街道について書きましたので、今朝は、その街道のうち、高知市と県東部をつなぐメインルートを車で辿りに行ってみました。これはなかなか面白い。今でも真っすぐ通れるようになっちゅうがですね、旧街道。
山田橋から比島にかけて。ここが一番変化して、わかりにくうなっちゅう場所。近年までは昔の街道ルートそのままやったがですが。その旧道を一宮、そして布師田の山裾の細い道。で、国分川に出て、橋を渡り、国分川南岸をしばらく東進してから中島へ。

写真は南国市岡豊町中島。
医大の南、国分川の南の、東西の道。これが明治期のメインルートやった訳です。今は制限速度20kmの狭い道。しかし、何となく、昔の賑わいがしのばれます。
この道をまっすぐまっすぐ南東へ進みます。新しい曙街道を横切り、どんどん進むと、小籠。途中、街道沿いに黒岩のお餅屋さんがあります。そうか。なんでこんな所にお餅屋さんが、と不思議でしたが、ここは街道沿いやった訳か。高知市と県東部を結ぶメイン街道。まだ、徒歩で行き来した明治期。お餅屋さんで休憩したことでしょう。なるほど。

さて。更に進むと土佐希望の家さんのある山。山と山の間の峠のような部分に、道は上っていきます。今の道は、峠からまっすぐ南へ下るようになっちょりますが、峠に、南東へと下っていく狭い道路があります。これ。これが間違いなく旧街道でしょう。それを下ると、広い道路を横切り、そのまま南東へ下って踏切。更に進むと、後免駅から南へ行く道に突き当たります。右に折れ、短い高橋を渡ってすぐに左折。そこは後免の商店街。そう。明治期の街道は、後免の商店街を突っ切っちょりました。と、申しますか、街道沿いに後免の商店街が形成された、とも言えましょう。

後免の商店街を抜け、左折して旧国道55号線。そして立田から物部川を渡り、野市へとつながっちょったという訳です。車で走ってみると、途中、狭いところはありますが、真っすぐにつながっちゅうがにビックリします。これが明治期のメイン街道。黒岩のお餅屋さんは、その街道の痕跡かも知れません。

ここ、中島は、岡豊山のしゅっと南。戦国期、この中島を本拠にして長宗我部氏に仕えたのは、中島氏。長宗我部7代目の長宗我部兼光から分かれた一族と言いますき、長宗我部氏にとっては譜代中の譜代。信頼厚い一族。岡豊城の南を守りました。この中島、江村、その南の吉田など、今も、長宗我部股肱の臣の姓が地名に残り、過去を忍ばせてくれます。

では、藩政期、街道はどうなっちょったのか。

お城下からここ、中島までは、概ね、上でご紹介したルートやったと思われます。国分川(布師田川)を、どこで渡ったかはわかりませんが、長さ19間の橋があったそうです。こっから野田を通っり、物部川を渡って野市の深淵、となっちょります。さて。と、なりますと、小籠辺りから、少し北を通ることになります。後免の町中を通らない。後免の北側を東進して、福船から深淵に渡りよったにかありません。
つまり。後免の商店街は、明治になって新しい街道が整備され、それに伴うて発展した、ということが言えるかも知れないのであります。なるほど。

で、明治期の街道も、大正14年に高知と後免の間の電車が全通し、自動車が出現してきて、大きな変化を見せました。電車通りが、一躍メインルートに躍り出たのであります。それが国道55号線となって県東部の幹線となり、南国バイパスができるまで、県東部交通の主役であり続けました。
こうやって見てみると、人の往来のルート、すさまじく変遷してきちょりますね〜。東部自動車道もできよりますし。これからの人口減少社会の中で、交通体系はどうなっていくのか。なかなか難しい。


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